時は明治初期、 
誰も抗うことのできない 
新たな時代の波が、 
六骨峠にも押し寄せていた……
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 1868年、江戸は東京へとその名を変えた。 
250年以上に渡って続いた徳川幕藩体制は終わりを迎え、 
明治政府の手によって欧米諸国を意識した中央集権国家が作られた。 
同時に旧時代の象徴である武家の権力は、急速に失われつつあった。 
だが新政府誕生から7年、佐賀で起こった士族の反乱を皮切りに、 
全国各地で武士たちは息を吹き返しはじめていた。 
それから少しの時を経た1877(明治10年)、 
全国各地で続く政府軍と武士たちの小競り合いのなか、 
この六骨峠でもそうしたキナくさい事態が起こりつつあった。 
 六骨峠を一手に納める武家として、栄えていた黒生屋。 
黒生家は2年前に建設した製鉄高炉「アラヤシキ」の経営に失敗し、 
財政は悪化していた。 
そこで黒生屋では御家立て直しのため、 
高炉と六骨峠宿場町の売却を計画したのだった。 
売却相手は明治政府、あとは売却の調印式を迎えるだけであった。 
一方、その高炉を虎視眈々と狙う者たちがいた。 
彼らの名は赤玉党、「打倒明治政府」を掲げる士族の集まりであった、 
政府軍の強大な軍事力の前に成すすべもなかった。 
そうして彼らが敗走の末に辿りついたのがこの六骨峠である。 
彼らは軍事的価値の高い高炉に目をつけ、 
これを黒生屋より奪取することを画策するのだった。 
 黒生屋と赤玉党の高炉をめぐる衝突を恐れてか、 
かつて多くの旅人でにぎわった六骨峠宿場町も、 
今となっては訪れる者もほとんどいない。 
もっとも、黒生屋が進める立ち退きに大半の宿場町住人が 
応じたため、旅人を迎える場所自体が宿場には 
ほとんど残ってはいなかったためでもある。 
そんななかでも黒生屋の嫌がらせに屈せず、 
宿場で唯一営業を続けているのが「めし屋甘栗」。 
年老いた店主とその娘は立ち退きに応じず、 
ただただ宿場町に平和が訪れるのを待ち望んでいた。 
 こうした六骨峠事情を知らず、偶然そこへやって来た一人の「侍」。 
この「侍」が過ごすわずかな2日間で、 
複雑に入り組んだ事態は誰も予想しなかった方向へと 
進んでゆくのであった。 
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