■ 黄巾の乱〜呂布の最期

●黄巾の乱

2世紀末、当時の後漢王朝は、内部の構想によって腐敗し、その権威は失墜していた。
国土は荒廃し、田畑を失い流浪する民衆。時代は荒れていた。

・張角の台頭
ある所に張角という人物がいた、あるとき、気分転換に薬草を作ろうと山の中へ入っていくと 南華老仙という人物に出会い、そこで『太平妖術の書』を授かる。
張角は南華老仙の教えに従い、ついには風雨を呼び起こす力を会得、 民には符水(呪いを施した水)を飲ませて病の床に臥している人を救ったと言われている。

民衆の間で噂は広まり、張角は皆から慕われ、周りに人が集まるようになってきた。
張角は自らが唱えた道を太平道と称し、人々は太平道に救いを求めるようになった。

太平道の教祖である張角は「蒼天已死 黄夫当立 歳在甲子 天下大吉(蒼天已に死す、黄天当に立つべし。
歳は甲子に在りて、天下大吉ならん)」という言葉を広め、民衆の間に反朝廷の気運を高めていった。

・黄巾の乱
そして184年、ついに張角は天下取りへと乗り出す。
自らを「大賢良師」と称し、奇跡を起こして信徒を増やした張角は、 その勢力を組織化して蜂起の準備に取りかかった。

この動きが密告によって朝廷に露見してしまうと、張角はすぐに挙兵した。
自らは「天公将軍」弟の張宝・張梁は「地公将軍」「人公将軍」を名乗り、 何十万人もの民を煽動した。

張角に従う兵たちは、目印として頭に黄色い布を巻いた。 (元々は張角が髪留めに黄色い布を使っていたからだと言われる)
そのことから、彼らは黄巾賊と呼ばれ、この乱を「黄巾の乱」と呼ぶようになる。 黄巾賊は各地で朝廷の軍を破った。

勢いに乗る黄巾賊に対して、朝廷は皇甫嵩(コウホスウ)・盧植(ロショク)・朱儁(シュレイ)らを討伐に向かわせる。
黄巾軍はすでに中原の各地に展開していた。 幽州太守の劉焉(リュウエン)は、義兵募集の高札を掲げさせる。

・桃園の誓い
タク県桜桑村という所に、筵を織って生活をしていた若者がいた、名を劉備と言った。
世を憂いていた彼はこの高札を見て志を立てた。
時を同じくして、劉備という人物を見込んだ二人の男たちと出会った。

1人かつて幽州の鴻家に仕えたといわれる張飛、 1人は寺小屋で子供に学問を教えていた関羽であった。
意気投合した3人は村にある桃園で 「生まれたときは違えども、死ぬときは同年同月同日」と義兄弟の誓いを立てる。
これが有名な「桃園の誓い」である。
(蜀の臣である簡雍も、この義勇軍時代からの付き合いである)

この旗揚げの際、商人の張世平らから提供された鋼を用い、 関羽張飛は村の鍛冶屋に自分の武器を作らせた。
関羽は「青龍偃月刀」、張飛は「蛇矛」を手に取り、これを愛用していくことになる。
(これは演義の話で、正史ではこういうエピソードはない。
実際「青龍偃月刀」「蛇矛」が武器として登場するのはもっと後の時代である。)

・討伐軍の反撃
討伐軍側の総大将は「何進(カシン)」という人物であり、 元々は肉屋の主人であったが、彼の妹が皇后となったため、大将軍の位を与えられていた。

「乱世の奸雄」と称された曹操は、いち早く張宝・張梁を破る活躍を見せた。
遅れて参戦した劉備も、張角軍の包囲を破り窮地の董卓を救う。
情勢は討伐軍へと傾いていった。

黄巾軍の劣勢は、張角の病死によって決定的となる。
弟の張宝・張梁も戦場の露と散り、乱は年内に沈静化した。
残党の抵抗も、討伐軍の孫堅らによって鎮圧されていく。

かくして黄巾の乱は一応の平安を見た。
権勢を得た者、恩賞を受けた者、不遇のまま雌伏する者、と結果は様々だった。
だが、朝廷が力を失ったこの時代に、群雄が世に出揃った今、争乱はこれから始まる。

●虎牢関の戦い

・董卓の台頭
黄巾の乱が平定されたのち、朝廷内では勢力争いが激化していた。
まだ若い帝に変わり実権を掌握していたのは大将軍である何進のほか、 「十常侍」と呼ばれる10人の朝臣であった。
その専横はひどく、黄巾の乱で活躍した将の身分を剥奪したりしたため、 彼らは歴史上から姿を消すことになってしまった。(皇甫嵩、朱儁など)

時の帝「霊帝」が病死し、跡継ぎには2人の子供がおり、 1人は何進の妹を母とする「小帝」であり、 もう1人は血筋の子である「陳留王(チンリュウオウ)」であった。

大将軍である何進は自分の妹の子を跡継ぎとするつもりであったが、 それを快く思わない「十常侍」によって、何進は殺害されてしまう。
(何進も専権を振るっていたとされ、十常侍の何人かと刺し違えたとも言われる)

この混乱に乗じて台頭したのが西涼の董卓である。
董卓は軍事力を背景に十常侍を皆殺しにし、 民間の血筋である小帝とその母(何進の妹)を殺し、 器の大きい陳留王を新しい帝とし、朝廷を牛耳って、専横を振るった。
(この「陳留王」こそ後の「献帝」である。三OnにもNPCとして登場している。)

董卓はさらに、圧倒的な武力を持つ呂布(リョフ)を 味方に引き入れようと目論んだ。呂布は丁原(テイゲン)の養子であったが、 董卓は彼に「赤兎馬」を与え謀反をもちかけ、呂布は義父である丁原を殺してしまう。
自分の下に来た呂布を董卓は養子とし、傍らに置いたため、傍若無人で 多くの人の恨みを買っている董卓に対し、誰も表立って逆らう者はいなかった。
(「人中の呂布、馬中の赤兎」と言われ、 呂布は三国最強と言われるほどの武力を持ち、 赤兎馬は1日千里を走ると言われるほどの名馬であった。
千里=3,927.27273 kmであるので、実際それほど走れるか定かではないが、 正史にその名が刻まれるほどであるので、よほどの名馬であろう。
コーエーは自社の作品において、呂布を三国内で最強の武力の持ち主として設定している。)

・反董卓軍の決起
董卓の横暴に、群雄たちは当然、反感を募らせていた。
その内の1人、曹操は単身で董卓殺害を試みるが、失敗して故郷へ逃れる。
そこで曹操は、諸侯に檄文を送り、逆賊・董卓を討つべく挙兵を促した。

曹操の檄に、袁紹・袁術・孫堅・馬騰など、各地の群雄が応じた。
劉備もまた義兄弟らを引き連れ、旧知の公孫サンとともに参加する。 こうして董卓討伐の連合軍が結成された。

連合軍は名家出身の袁紹を盟主とし、袁紹は弟である袁術に兵糧奉行を任せた。
190年・冬、連合軍は董卓の居座る洛陽をめざして攻め上がる。
まず連合軍の先鋒・孫堅が、洛陽の東にある防衛の拠点・氾水関(シスイカン)へと迫った。

・氾水関の戦い
一方の董卓は、氾水関の守将に華雄を送る。
孫堅配下の程普が華雄の副将・胡軫を討ち取るなど、緒戦に勝利したのは、孫堅軍だった。
だが、袁術が兵糧の補給を怠ったため、孫堅軍は疲弊し、華雄はこれを見て孫堅軍を返り討ちにする。
(このとき俗に言う孫堅四天王の1人である祖茂も討ち取られている。 四天王の残り3人は程普、韓当、黄蓋)

勢いに乗った華雄は、連合軍の本陣に迫る。
連合軍の将が次々と打ち破られる中、劉備の義弟・関羽が名乗りを上げた。
関羽は酒を飲み出撃したが、陣幕を出て間もなく、関羽は華雄の首をさげて帰還した。
連合軍は将を失った敵を一気に叩き、壊滅させた。

・虎牢関の戦い
董卓はこの報を受けて、要害の地・虎牢関に籠もった。
関前に陣取るは呂布。その武勇の前に連合軍は歯が立たない。
いましも公孫サンが討たれようというとき、張飛が躍り出た。

張飛は善戦するも、呂布は怯まない。義兄の関羽も加勢するが、呂布は互角に渡り合う。
ついには劉備が加勢し、さすがの呂布も三人相手では分が悪いと隙をみて逃げ出した。

・董卓の逃亡
呂布の敗走に形成不利と見た董卓は、直ちに軍勢を率いて洛陽に退却する。
そして長安への遷都を強行すると、洛陽の都に火をかけ、帝を擁し、 民を引き連れて長安へと去った。
洛陽はこのときまで長く中国の都であったため、この強引な遷都に多くの民衆は悲しんだという。
かくして連合軍は、董卓撤退という形で勝利を収めた。

董卓が撤退した洛陽はもぬけの殻であったため、連合軍はここに留まった。
曹操だけは自分の軍勢を率い董卓を追ったが、敵の伏兵に合い敗北。
徐栄軍に川岸まで追い詰められ曹操は自害を決意したが、従弟の曹洪が 「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず!」と直言し、 曹操を担いで川岸の対面まで泳ぎ、命を救ったという。

董卓が長安へ遷都する際、王家の陵墓に埋められていた財宝を略奪したが、 連合軍の孫堅が、洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞いだという。
その際に、古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見し、程普により玉璽であると判明する。 しかし袁紹にこのことが露見してしまう。
連合軍はここで解散となり、各々自国へ戻っていった。

・孫堅の最期
洛陽からいち早く陣を引き上げる孫堅に対し、 袁紹は劉表に孫堅を攻撃させ、玉璽を奪う事を画策した。
孫堅はからくも逃げ延びたものの、多くの兵を失うこととなった。
この時手にした玉璽は、後に息子の孫策に託されることとなる。

やがて袁紹と袁術が対立し始め、 諸国はこの争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。

192年、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせたが、 孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲したものの、 襄陽近辺で黄祖の部下、呂公が放った矢に当たり死亡したという。享年37。

冀州では領土を巡り公孫サンと袁紹が争っていたが、この時公孫サンの元に 趙雲が助太刀に入っており、ここで劉備兄弟と目通りしている。
趙雲は元袁紹に仕えていたが、公孫サンを経て、後に劉備に仕え蜀の柱となる名将である。

●曹操の台頭

・董卓の最期
長安へ都を移した董卓は相変わらずの暴虐ぶりを発揮し、さらには帝位に就こうとする。
この有様を憂いていた朝臣の1人、王允はある計を考える。
王允には貂蝉というとても美しい養女がおり(当時十六歳であるとされている)、 董卓と呂布の間に貂蝉が入ることで両者を仲違いさせる「(美女)連環の計」を用いたのである。
(貂蝉は、楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられるという)

この計略は見事に成功する。王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。
だが、次に王允は呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまう。

怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めた。
その後、呂布と貂蝉が度々密会していることに対して董卓が怒るが、 腹臣の李儒(リジュ)の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。

だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、 結局貂蝉は董卓の下を動かない。それに対して怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害したのである。
董卓享年54。192年5月22日の真昼のことであった。

・乱世の奸雄
董卓が急死した後、また天下は荒れていく。
呂布は董卓軍の残党を攻撃するが、董卓の元部下たちが逆襲に転じ、王允が討たれてしまう。 やむなく呂布は長安を去った。

かつての黄巾賊などの荒くれ者が略奪を働き、国は大いに乱れていた。
朝廷はこれを討伐するべく勅命を出し、賊徒を制圧していく。
この混乱に乗じて着々と力を着けていたのが曹操であった。

曹操の軍が黄巾族の残党と戦っている時、何儀という黄巾族の総大将が 曹操に一騎打ちの勝負を挑んで来た。典韋に命じ捕らえに行かせたが、 その時一人の農民が現れ何儀を捕らえ去ろうとした。この人物こそ許チョである。
許チョが何儀の受け渡しを拒否したため典韋と一騎打ちをしたが勝負がつかなかった。
その強さを見込んだ曹操は罠を使い許チョを捕らえ、配下に加えた。

力をつけた曹操は、父親である曹嵩を城に招こうと使者を送る。
曹嵩が向かう途中、陶謙のもてなしを受けたが、その際に陶謙の武将、 元黄巾賊であった張ガイによって殺害されてしまう。

曹操はこれに号泣・激怒し、徐州に青州兵30万を含む大軍を差し向け、 当地で兵と民を問わず無差別に皆殺しをした。
このまま攻め込まれれば陶謙も殺されていたが、 呂布が曹操の背後を突いたため、曹操はやむなく引き上げた。
このとき陶謙の元へは劉備が救援にかけつけていた。

・呂布の迷走
袁術の元へ向かった呂布だが、これを拒否されていた。
次に黒山賊と戦う袁紹に助太刀し、これを撃破したが、折が悪く袁紹の元を離れる。
さらに張楊を頼ったがこれもうまくいかず、呂布の武勇と粗暴さを畏怖し、 他の勢力もあえて迎え入れようとはしなかった。 その後、曹操に反旗を翻していたのである。

この時期イナゴ(害虫)が大量発生し飢饉であった。
両軍ともにこの被害に苦しみつつも2年以上にわたって両軍は激しく戦うが、 ついに呂布は曹操に敗れ、徐州へと落ち延びていった。

このころ朝廷では董卓亡き後、李カク、郭という2将軍が牛耳っていた。
董卓時代と相変わらず暴政を続ける2人は、ついには仲違いする。
献帝は2人がいがみ合う隙に逃亡。李カク、郭は後を追い官軍を攻撃するが献帝は逃げ切る。
その後、献帝は曹操を頼り、曹操軍は李カク、郭の両軍を掃討。
曹操は献帝を伴い、都を許昌へと移した。

●小覇王 孫策

孫策の台頭
そのころ江東では孫策が台頭しつつあった。
父・孫堅亡き後、孫堅の軍は解体され、主家筋にあたる袁術の軍に吸収されていた。
194年、袁術に対し亡父孫堅の軍の返還を求め、千人強の兵を得る。
わずか千人強ではあったが、その中には、朱治、黄蓋、韓当、程普といった 孫堅軍の中核をなした武将たちが揃っていた。

袁術から独立する機会をうかがいつつ、孫策はさらに様々な人材を集めていた。
「江東の二張」といわれる知謀に長けた張紘、張昭や、 後に呉の精鋭となる蒋欽、周泰、陳武、凌操らを仲間に引き入れていく。

・小覇王
やがて叔父の呉景の援軍という名目で、袁術と対立していた劉ヨウを攻めることになった。
(この時、孫策は21歳であったという。)
そこで幼馴染である周瑜と再開し、さらに兵力を増やす。周瑜とは深い信頼と友情で結ばれ、 また後に「江東の二喬」と呼ばれた美女姉妹をそれぞれ妻とし義兄弟となった。

少数ながら孫策軍は強く連戦連勝であった。
ある時、孫策が少人数で行動していたとき、劉ヨウ配下であった太史慈と出くわした。
太史慈孫策に対し一騎打ちを挑み、孫策はこれを受けて数合打ち合うが、勝負がつかなかった。
(正史において一騎打ちは珍しいものであり、しかも頭首がそれを受けたというのは、非常に稀有な事例であるという。 また孫策も君主でありながら相当な武力の持ち主であったことがうかがえる。)

やがて劉ヨウを追い出し、孫策は城を落とす。
この功績を称え人々は孫策の事を「小覇王」と呼ぶようになった。
だが劉ヨウを敗走させた後も、太史慈は未だ孫策に抵抗していた。

勢いに乗った孫策は、許貢、王朗、厳白虎を撃破しさらに領土を拡大。
そして遂に太史慈も打ち破り、その人物を見抜き太史慈を仲間に加えた。
太史慈は配下となった後、残党兵をかき集めてくると言い孫策の元を離れたが、 孫策はこれを信用し、太史慈は見事に約束を果たしたという。
太史慈は優れた武力に加え義に厚い猛将であった。 後に曹操太史慈の噂を聞き、好条件を出し配下に加えようとしたが、 孫権への忠義を尽くし拒絶したと言われる)

その後、袁術との関係を保ちつつ、さらに人材登用を積極的に行う。
その中には呂蒙(リョモウ)、虞翻も含まれ、一旦袁術の元に戻っていた周瑜も魯粛(ロショク)を連れ孫策と合流した。
民の人心を得る事にも尽力し、着々と孫策は地盤を固めていったのである。

●呂布の最期

・呂布と劉備
194年。徐州の陶謙は病で死去していた。享年63。跡目を譲られたのは劉備であった。
呂布は劉備の元へ赴くと、劉備を弟と呼んで居座り、留守の間に下ヒ城を奪ってしまう。
やむを得ず呂布の下に就いた劉備だが、張飛が原因で呂布と決裂し、 困った劉備曹操を頼っていく。

曹操は、英雄用いるべしと劉備を厚遇し、劉備を豫州の牧に置いた。
李カク、郭の残党兵らが劉表と手を結んで曹操に対抗している との知らせが舞い込んだため、曹操はそれを討伐に向かう。
首謀の張シュウは曹操に攻め込まれるや、すぐに降伏してしまう。
しかしこの後曹操はとんでもない失態を犯すことになる。

・宛城の包囲網
城に留まった曹操は、その城にいた張済の妻である未亡人に執心してしまう。
一族の女性に手を出された張シュウは激怒し、知略に長けた賈クの助言に従い、 宛城にいた曹操に夜襲をかけたのである。

まず張シュウ配下の胡車児(コシャジ)が、曹操の護衛をしている典韋に酒を飲ませ、 酔わせた隙に武器を奪ってしまう。その後張シュウ軍は火を放ち曹操を追い詰める。
あまりに手薄であったものの、曹操は命からがら逃げ延びた。
しかし護衛隊長である悪来典韋をはじめ、長男である曹昂(ソウコウ)、 甥の曹安民(ソウアンミン)などを失ってしまう。

曹昂は父の曹操ほど優れた人物ではなかったが、襲撃の際、 父を無事に逃すために自分の馬を差し出し、自らは殺害されてしまった。
生母の劉氏は早くに亡くなっており、丁氏(曹操の正室)に育てられた。
しかし曹昂の死に丁氏は曹操を恨み、自ら離別して実家に戻ってしまった。
丁氏を愛していた曹操は謝罪したが、二度と丁氏は戻らなかったという。

典韋は武器を奪われたものの、敵の武器を奪い奮戦する。 しかし全身に矢を受け、直立不動のまま息絶えたという。
典韋の死に曹操は曹昂の死以上に悲しみ、 遺体を取り戻すために志願者を募り、遺体が返ってくると故郷に葬らせた。
その後、曹操はその場を通るたびに典韋を弔った。

・呂布との対決
四方に敵がいる曹操にとって、気掛かりなのは呂布である。
そこで呂布を討とうと劉備に使者を送るが、事は呂布に漏れてしまう。

怒った呂布は、小沛の劉備を攻めた。
曹操軍からは夏侯惇劉備の援軍に駆けつけるが、 左目に矢を食らい退却してしまう。(矢を射たのは曹性といわれている)
この時夏侯惇は左目に刺さった矢を眼球ごと引き抜き「父母から貰ったものを粗末にできぬ」といい、 自らの左目を食らった後、曹性を討ち取ったといわれる。 (夏侯惇の胆力武勇を示す為の後世の創作である)

劉備らは呂布に城を落とされ危機的状況であったが、なんとか曹操の元にたどり着いた。
198年、呂布を討つべく曹操軍は下ヒ城を包囲した。
そして軍師、郭嘉の助言を聞き、2つの河を決壊させ、下ヒ城を水攻めにした。
多量の泥水が下ヒ城に押し寄せ、呂布軍に動揺が広がった。

・呂布の最期
打つ手のないまま呂布は酒色に溺れていく。
思い直して禁酒令を出すが、折悪しく侯成が善意から猪料理と酒を薦めた。
これに怒った呂布はきつく罰し、部下たちの反感を煽ってしまう。

ついには侯成・魏続・宋憲が呂布から離反してしまう。
3将軍は赤兎馬を盗んで曹操に献上し、さらに城内へ曹操軍を手引きした。
呂布は、酒に酔って寝ていたところを厳重に縛り上げられ、曹操に突き出されてしまう。

曹操と対面した呂布は、ともに天下を取ろうともちかける。
顧みる曹操に、劉備は董卓らの例を挙げて警告し、曹操は呂布の首を討つことにした。
呂布は劉備を散々に罵る、しかし呂布配下の張遼に「武人なら、死ぬ時は潔く死ね」と 逆に罵られる始末であった。呂布は首を討たれ、配下の陳宮・高順も斬首となった。
しかし張遼は今にも首が討たれんとするとき、関羽の言によって救われ、曹操配下となった。

またこの頃、袁紹は隣国の公孫サンを攻め滅ぼし、領土を広げていた。
やがて曹操の次の矛先は、この袁紹に向けられていく。

劉備曹操
呂布を討った後、曹操劉備を伴って都へと帰還する。
ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは相当なもので、 車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を 同格にすると言う異例のものであった。
曹操と歓談していた時に、劉備曹操から「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。 袁紹などでは不足だよ」と評されたといわれている。

また劉備曹操によって献帝と引き合わされるが、 劉備が前漢の中山靖王劉勝の末裔であることを知り、 一族にあたることを献帝は喜び、劉備に好感を持った。

・袁術の最期、曹操暗殺計画
だが政治を強引に牛耳る曹操に、献帝は密かに董承に曹操を討つよう命じる。
董承は同士を募り、その中には劉備や馬騰(馬超の父)もいた。

また一方で袁術は自分の領内に暴政を働き、 私腹を肥やすため重税を課したために人心が離れていた。
曹操劉備に袁術を攻めさせ、さらに山賊も袁術を襲ったため軍は壊滅。
袁術は兄の袁紹の元へ逃亡途中に病死した。 大好物の蜂蜜が無いのに怒り、一斗(当時は約1.98リットル)余り吐血して死んだと言われる。

その後、董承の曹操暗殺計画も、露見してしまい失敗。
逆に曹操は董承をはじめ、その一族や一派、妊娠中であった献帝の妻(董承の娘)をも殺してしまう。
そして帝の発言力は徐々に失われていき、劉備曹操も敵対関係となった。
劉備曹操の隙を見て逃げ出した。

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