■ 三国時代の終焉

三国時代の物語の題材として最も取り上げられる部分は、黄巾の乱〜諸葛亮の死亡までの期間です。
諸葛亮の死亡以降は三国時代が終焉に向かう時代の節目ではありますが、 物語としてのドラマチック性、盛り上がりには欠けるため、 三国志を題材とした作品ではカットされる事が多く見受けられます。
おそらく三国志Online内でも、これ以降のストーリーに関連づけされるような コンテンツはないと思われます。

●魏の滅亡

・公孫淵の謀反
諸葛亮の死に安心したのか、魏の曹叡は宮殿の造営を行い、国力を衰退させた。
238年、遼東の公孫淵が燕王を自称し、魏に対する謀反を起こすと、 曹叡は群臣の反対を押し切って征討を決行。司馬懿の判断を全面的に信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた。

このとき明帝(曹叡)は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ね、司馬懿はこう答えている。
「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。 知恵者がいれば、あるいは(公孫淵が)城を捨てることも有るでしょうが、 あれはそんな策を考えつける人物ではありません。」

遼東では長雨が続いたため、遠征がさらに長引くおそれがあった。
廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。 彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。
魏の征討に対し、公孫淵は孫権に援軍を求めた。そのとき、孫権はこんな書簡を送っている。
「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。 そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と。
公孫淵はこの後、司馬懿が下策と評した籠城を行って大敗した。
人質を差し出して助命を嘆願しに来た公孫淵の使者へ、司馬懿は興味深い発言を残している。
「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。 あとは降るか死ぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみよ。人質など無用」

こうして司馬懿は公孫淵父子やその高官たちを斬り、遼東の制圧に成功したが、凄まじいのはその後の処置である。
中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、 いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の成年男子を皆殺しにし、 その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたという。
「晉書」では「王朝の始祖たる人物が、 徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。

こうして魏国が蜀漢・呉と当たる際、後顧の憂いとなっていた遼東公孫氏を取り除いた。

・3代目・曹芳
五丈原の戦いから5年後の239年、魏の2代目皇帝・曹叡は病に倒れ、 司馬懿と曹爽(曹真の長男)に後事を託して36歳の若さで世を去った。
後を継いだのは曹叡の子で、まだ8歳の曹芳である。

曹爽は権力独占を狙い画策、司馬懿を名誉職に追いやって実権を握った。
ただし軍権を奪われてはおらず、司馬懿はこの間の241年、 呉の朱然らが樊城を包囲すると、自ら進み出て軽騎兵を率いて急行し、迎撃した。
司馬懿は呉軍に勝利し、243年にも呉の諸葛恪を撤退させた。

一方、244年、曹爽は蜀に出兵する。しかし曹爽の取り巻きは名声はあるものの、実績がまだ皆無であった。
征伐にあたって投入した十万もの大軍を維持する補給が、険しい蜀の桟道のためにうまくいかず、 蜀の漢中太守・王平の頑強な抵抗もあって無惨に失敗した。

また何晏達が、政治を壟断したため魏の政治は乱れることになった。
247年、司馬懿はこの状況を憂慮し、また、自身の身を案じて、 「自分は高齢である」という理由で病気と称して引き籠った。
また二人の息子、司馬師、司馬昭も閑居する。
248年、曹爽の取り巻きの一人である李勝が荊州に赴任するに当たり、司馬懿を見舞った時に、 司馬懿は重病のように見せかけて彼らを油断させた。
(李勝が言っていることをわざと聴き間違える、薬を飲むときにわざとこぼす、など)

司馬懿、起つ
249年、曹爽が洛陽を留守にした機会を見計らって、司馬懿は息子と部下を率いて宮中へ押し寄せ、クーデターを起こした。
そして皇帝に上奏し、曹爽の権力を剥奪。降伏した曹爽と曹爽一派を殺害。
決行する日の早暁、司馬師は速やかに城門を押さえ、内外を鎮撫した。
その整然とした陣容を見た司馬懿は「この子もやるようになったな」と言った。
司馬懿は魏における全権を握った。丞相を与えられるが固辞している。

同年、王凌は甥の令孤愚と共に魏の皇帝・曹芳の廃位を企み、楚王曹彪の擁立を企てた。
曹芳が年少で頼りなく、司馬懿のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。
長子の王広が激しく諫めたが、王凌は取り合わなかった。

令孤愚の死後も計画を進めたが、251年、密告により司馬懿に察知された。
司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王凌を追い込み、降伏させた。

その後、王凌は司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟り、護送の途中賈逵を祀った廟の前を通りかかると、 「梁道(賈逵の字)どの、この王凌はもとより魏の社稷に忠実な男です。 あなたに神格があるのなら、ご存知のはずです」と叫んだという。
そして、都に護送する途中で王凌は項という所で服毒自殺した。齢80。
やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らを含めて、王凌の三族は処刑された。

また、曹彪も自殺を命じられた。齢58。
曹彪配下の官僚は監国謁者(王の監視人)を含め、事情を知りながら報告しなかったとの理由で全て処刑された。
息子の曹嘉は254年、常山郡真定県の王に封じられた。

司馬懿から司馬師へ
司馬懿はこの事件の後、魏の皇族をすべてギョウに軟禁し、互いに連絡を取れないようにした。
さすがの司馬懿も老齢となり、251年、世を去った。享年72。
その長子・司馬師は「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」と言われ、撫軍大将軍として魏の全権を掌握した。
次子・司馬昭も将軍に封じられ軍権を得る。

嘉平五年(253年)、呉の太傅・諸葛恪が新城を包囲すると、 朝議では呉が兵力を分けて淮水や泗水を抑えることを懸念する声が相次いだが、 司馬師は「諸葛恪は呉の政治を執るようになって日が浅く、目先の利に動かされているのだ。 合肥の兵を併せたところで、徐州や青州を脅かす余裕はあるまい。 こちらにしても、河口は一つだけではないのだ。 多勢でならばともかく、少人数では守るに兵力が足りない。」として、 鎮東将軍のカン丘倹と揚州刺史の文欽を差し向けた。

二人の将軍は戦うことを求めたが、司馬師は「諸葛恪は敵地へ深入りしすぎているし、 布陣しているのは「死地(進むことも退くこともできない場所)」だ。 それに、新城は小さいが守りに強い。攻めたところで落とせまい。」とし、命じて高塁を築かせ、敵の疲弊を待った。
数ヶ月の間、諸葛恪は城を力攻めにしたが、死傷者が増えるばかりだった。
呉軍の攻め疲れを見た司馬師は、文欽に精鋭を派遣して呉軍の退路を押さえさせ、カン丘倹をその後詰めにまわした。
退路を失うことを恐れた諸葛恪は退却しようとしたが、そこへ文欽が撃って出たため、呉は大敗を喫した。

254年、皇帝・曹芳は、斉王の中書令の李豊と側近の夏侯玄、皇后の父・張緝らに勅命を下し、 司馬師を排斥して夏侯玄を執政にしようとした。

それを察知した司馬師は、ひそかに李豊を邸へ招いた。
事破れたるを悟った李豊は口をきわめて司馬師を罵り、 激怒した司馬師は配下の壮士に命じて刀環で李豊の腰を強打させ、これを殺した。
ついで張緝や夏侯玄らを捕らえて三族皆殺しにした上、張皇后も皇太后の命として死を賜った。
さすがに皇帝を害することはできなかったが、これ以上の難事が増えることを嫌った司馬師は、皇帝の廃位を考えた。

嘉平5年九月、皇太后の令として「皇帝、春秋已に長し……耽じて内寵を淫し、女徳を沈マンし、 日に倡優を近づけ、其の醜虐を縦にし……人倫の叙を毀ち、男女の節を乱す……」との理由で皇帝・曹芳を廃した。
(成人になるのに政務をせずに色欲にふけっているという理由だが、この令の内容がどこまで真実かは不詳。 ただし、阮籍の「詠懐詩」に斉王芳の荒淫を諷したと見られる詩があることなどから、 斉王の荒淫はある程度事実だったと見る向きもある。)
曹芳は時に数えで23歳であった。廃位後、洛陽を去るとき、それを数十名の朝臣のみが見送った。

廃された斉王の後として、司馬師は彭城王據を挙げたが、郭太后は宗廟における昭穆の序列に合わないとして退け、 明帝の後を受継ぐ者が望ましいとし、東海王霖(明帝の異母弟)の子・高貴郷公髦を挙げた。
司馬師は皇太后と争ったが、郭太后は譲らず、後継は高貴郷公(曹丕の孫・曹髦)に決まった。

255年、カン丘倹と文欽が挙兵する。朝議の多くは、諸将を派遣して討伐させるべきだという意見だったが、 鍾会や王粛、傅カといった人々は、司馬師自ら出ることを勧めた。
司馬師はこれに従い、自ら歩兵十万を率いて進発し、陳や許の郊外で大いに会戦した。
やがて、カン丘倹の部将である史招、李続が相次いで投降し、カン丘倹と文欽は項城へ移った。
司馬師は荊州刺史・王基をして南頓からカン丘倹を圧迫せしめる一方、高塁を築かせて東の軍が結集するのを待った。
諸将たちが進軍して城を攻め落とすことを請うと、司馬師は答えた。
「諸君らは其の一を得ているが、其の二を知らない。淮南の将士たちには、もともと反意などない。 カン丘倹と文欽は縦横家の真似をして、遠近必ず応じると言っていたが、いざ事を起こしたとき淮北は従わず、 史招と李続は瓦解してしまった。内外に隙間を抱えていて、自分たちでも既に失敗したことを解っているから、 速戦するほど相手は志気を合わせてしまう。戦えばこちらが勝つとはいえ、犠牲も多くなる。 カン丘倹たちの計画のいい加減さは、もう明らかになっている。これが戦わずして勝つというやつだ。」 そうして、諸葛誕らに命じて反軍の退路を遮断させた。

司馬師は汝陽に駐屯して、ケ艾と楽嘉を派遣した。
彼らは魏軍が弱いと見せかけて文欽を誘い出し、伏兵でもって襲い掛かった。
文欽の子・鴬は、まだ18歳ではあったが勇敢で、 父親に「まだ勝敗は決していません。城に登って鼓すれば、魏軍を撃ち破れます。」と言ったが、 文鴬が三度鼓しても文欽は応ぜず、文鴬は退いて、父とともに戦線を東に下げた。
司馬師は文欽が逃げたことを知ると、精兵で以て追撃を開始させた。
諸将は「文欽は旧態依然としていますが、息子の鴬は若く気鋭です。 自軍を内にいれ、いまだに損害を被っていないなら、文鴬が敗走することはありません。」と言ったが、 司馬師は「一度鼓すれば士気が生まれ、二度目は衰え、三度目で尽きる。 文鴬は三度鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いはすでに屈している。 敗走しないなら、何を待っているのだ?」と、追撃を緩めなかった。
文欽が更に逃げようとしたとき、文鴬は「司馬師に先んずることができず、わが軍の勢いを折ってしまった。 このまま引き下がることはできません」と言い、数十騎で魏軍に斬り込み、向かうところ全て薙ぎ払い、引き上げていった。
司馬師は騎兵八千でこれを追撃させ、沙陽で次々と文欽の陣を落とし、大いに撃ち破った。
文欽父子と部下は項まで落ち延びた。一方、カン丘倹は文欽の敗走を聞くと、配下を棄て、夜陰にまぎれて淮南へ逃亡したが、 捕らえられて斬首され、その首は都城にさらされた。文欽父子はついに呉まで逃れた。

・司馬師から司馬昭へ
司馬師は、持病だった目にある悪性の瘤を手術していた。
術後、あまり経過しないうちに帰陣しており、そこへ文鴬の奇襲を受けて無理をしたため、片方の目玉が飛び出してしまった。
自分の病状が全軍の士気に影響することを恐れ、傷を隠していたが激痛に悩まされた。
閏月、病状が悪化したため司馬昭を呼び出して軍を委ね、許昌にて死去した。
彼には男子が無く、司馬昭の次男・攸を養子としていた。
司馬師の死後、家系を継ぐのは司馬攸となるところだが、司馬昭の長子・炎が司馬攸の兄であることを考慮し、 後継者として司馬昭を選んだ。

諸葛亮の従兄弟・諸葛誕は、司馬師に誅殺された夏侯玄(曹爽一族の残党でもある)などと親密な間柄であること、 カン丘倹が滅ぼされたことから、司馬一族から誅殺される事を恐れて、同年司馬昭の専横に対抗するとして反乱を起こした。

洛陽召還は、諸葛誕の内心を見越した賈充の策であり、早めに諸葛誕を暴発させ、その芽を摘むという計算であったとされる。
諸葛誕は末子の諸葛セイと長史の呉鋼を呉に送り、援軍を頼んだ。
しかしながら兵糧不足が解消できず、呉の援軍も諸葛誕を救出できなかった。
また、かねてより関係の良くなかった文欽と共に籠城したものの、対立して彼を殺したため、 文欽の息子である文鴦・文虎が司馬昭軍に投降し、進退窮まった。
258年、単身城外への脱出を図るが、司馬昭軍の胡奮の軍勢により斬り殺され、首は洛陽へ送られた。
諸葛誕の三族は皆殺しとなった。

258年 この年より、司馬昭は相国・晋公に封じられ、九錫を賜るがこれを辞退することが繰り返される。
簒奪の準備段階として、世論の瀬踏みをしているといわれる。

・5代目・曹奐
司馬昭の専横に耐えかね、ついに皇帝・曹髦も「司馬昭の(簒奪を目論む)心は、道行く人でも皆知っている」と言い、 自ら槍を手に、わずかな近衛兵を率いて挙兵した。
しかし、挙兵を打ち明けた王業・王沈・王経の内、王業・王沈が密告したため、 既に司馬昭の懐刀である賈充が軍勢とともに待ち受けていた。
しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。
賈充は部下たちを「司馬公がお前たちを養ってこられたのは、まさに今日のためである」と叱咤し、 罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた。
『晋書』文帝紀では「太子舎人成済、戈を抽きて蹕(さきばらい)を犯し、之を刺すに、 刃は背より出で、天子は車中に崩ず」とある。

結局、司馬昭は実行犯の成済に全責任を押しつけ、一族もろとも処刑してしまった。
成済は処刑直前、門の屋根に登り司馬昭や賈充を罵ったという話も伝わる。
また、ただ一人密告しなかった王経も、老母ともども処刑された。一方、賈充はまったく罪に問われなかった。
『魏志春秋』では、高貴郷公暗殺を聞いた太傅の司馬孚と尚書僕射の陳泰は、 若い皇帝の遺体を膝に乗せて哭礼を行ったという。
そこへ、当の司馬昭が参内し、陳泰は彼に向かって泣いた。
司馬昭は密室に陳泰を連れ込み、これからどうしたらよいか方策を聞いた。
陳泰は「殺害を命じた賈充を腰斬に処すくらいしか、天下に謝罪する方法はありません」と言い、 譲歩を訴える司馬昭に対して「私が申し上げるのはこれだけです。他の策など存じません」と譲らなかったという。
曹髦の葬儀は、彼が皇太后の殺害を企てて、その宮殿に乗り込まんとして、 逆に衛兵に殺害されたという公式発表のために、当初は庶民として扱う旨の命令が出されていた。
しかし、司馬昭の叔父である司馬孚はこれを聞くと自ら皇太后に談判し、 一諸侯としての格式で葬儀を執り行う確約を取り付けた。
人々は曹髦が司馬昭の命で殺害されたことを知っており、葬儀の様子を見た人々は、哀れさのあまり涙を流したという。
このあたり、彼の陳寿の筆致は晋の史家であるにも関わらず、天子殺害の事変を淡々かつ容赦なく批判的な記述を続けている。

司馬昭は、曹奐を5代目の天子に立てた。
この直前、2度目の相国・晋公・九錫の下賜があったが、やはり時期尚早とみて辞退した。

・蜀の討伐
263年、政権が落ち着いたのを機に、司馬昭は本格的な蜀討伐へと乗り出した。
まず鍾会が漢中を落とし、さらにケ艾が成都に迫ると、暗君・劉禅は早々に降参し、あえなく蜀は滅びた。
ここで司馬昭は6度目にして相国・晋公となり、九錫を受けた。

264年、蜀平定の功により、司馬昭は晋王となった。
265年、司馬昭は中風の為に56歳で逝去。この時は文王と諡された。
司馬昭は、兄・司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、 周囲の反対もあり長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。
晋王を継いで位人臣を極めた司馬炎は、さらに上を望んだ。

・魏から晋へ
司馬炎は、すでに名のみの皇帝だった曹奐に禅譲を迫り、帝位に就く。
265年、ここに魏は、晋に取って代わられる。魏が漢から禅譲を受けてから45年後のことであった。

新しく皇帝になった司馬炎は、一族を王として各地に封じ土地と兵力とを与えた。
これは魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったことが滅亡の原因となったと考えての対策であった。
即位後は善政に務め、民の負担を減らすようにした。泰始4年(268年)1月には泰始律令が完成している。
咸寧5年(279年)11月から賈充・楊済をそれぞれ主将・副将として、大挙して呉を攻めさせた。
咸寧6年(280年)3月には、呉の禅譲を受け中国統一を達成した。

●蜀の滅亡

諸葛亮の後継者
諸葛亮の意思を継いだ姜維は、機会を窺っていた。
やがて姜維は、諸葛亮の遺志に従って再び北伐の軍を起こそうとする。
247年には異民族の反乱を制圧すると隴西に進出して郭淮、夏侯覇らと戦うなど何度かの出兵をした。
姜維は自らの武勇と西方の異民族、羌族との協力体制を恃みにしていたが、 当時大将軍だった費イに「我々の力は丞相(蜀における丞相は諸葛亮のみ)に遥かに及ばない。
その丞相でさえ中原を定めることが出来なかったのだ。まして我々に至っては問題にならない。 今は内政に力を注ぎ外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と兵力を抑えられていた。

253年、費イは宴席でしたたかに酔ったところを、魏の降将・郭循に刺殺された。
費イは帰順したばかりの者でも信用し、あまりに無防備だったので、張嶷は暗殺の危険性を忠告していたという。
費イの死後、姜維と陳祗が国政を主導することとなるが、彼の後を継げる人物はおらず、 蜀漢は衰退の一途をたどることとなった。
姜維は費イの後を受け軍権を握り、北伐を敢行した。

同年に呉の諸葛恪が魏に出兵しようとすると、張嶷は諸葛恪の計画の中止を予見して、 その従弟に当たる諸葛瞻に手紙を送り、諸葛恪を忠告するよう要請した。
果たして諸葛恪は惨敗。呉の宗室である宰相の孫峻によって、一族皆殺しにされた。

・姜維の北伐
嘉平元年(249年)に司馬懿が曹爽を誅殺し、 曹爽の従弟の征西将軍の夏侯玄も朝廷に召喚される(後に殺害された)という事件が起こる。
この夏侯玄は、夏侯覇の従子(一族の中で一つ下の世代で、さらに亡父・夏侯淵の甥で夏侯覇の従兄の夏侯尚の嫡子)に当たり、 さらに、仲の悪い郭淮が、夏侯玄に代わって征西将軍の後任となった。
これらの事で自らの身に危険が及ぶのを恐れた夏侯覇は、這々の体で蜀漢に逃亡した。

蜀漢の皇帝である劉禅の皇后は、創業の功臣である張飛の娘であり、 その母親(張飛の妻)が夏侯覇の族妹(遠縁の“いとこ”、或いは姑母(おば)ともというが真偽の程は不詳である)で あったことから夏侯覇は手厚くもてなされ、後に車騎将軍に任じられた。
姜維はこれを機に、魏の治世危うしと北伐を願い出る。こののち数年にわたる北伐の始まりであった。

253年(延熙16年)、武都より進撃して南安に篭る陳泰を包囲したが、兵糧が尽きて撤退する。
254年には隴西へ出撃し、魏の狄道県の李簡が密かに蜀漢に帰順したい旨の書簡を送った。
蜀漢の群臣らは李簡の降伏を疑ったが、蜀の張嶷はこの降伏を間違いないと主張し、 果たして、李簡は蜀漢軍が狄道に来ると城門を開いて帰順した。
これを皮切りに魏の将、徐質を破るなどの戦果を挙げ、河関・狄道・臨トウの三県の住民を蜀に連行した。

255年、姜維は夏侯覇らとともに狄道に進出し、トウ水の西で雍州の刺史王経を大いに撃破した。
この時の王経の軍勢の死者は数千人とも数万人とも言われている。
王経は狄道城に逃げ、姜維はそれを追う。
蜀の鎮南大将軍張翼は「追撃すべきではない」と言ったが姜維はこれを聞き入れず狄道城を包囲した。
しかし魏の征西将軍陳泰が救援を率いてきたので退却した。

・段谷の戦い
256年、姜維は大将軍に昇進する。
魏では前年の敗北の損害が大きく、危機的な状況にあった。
皇帝曹髦はケ艾を安西将軍に任命し、雍州・涼州諸方面を固めるよう命じた。
ケ艾は姜維の行動を先読みし再び北伐すると考え兵を鍛錬し、守りを固める。
一方蜀は、姜維が大将軍に就き、鎮西大将軍胡済と連繋して上ケイで合流し、魏を破る計画を立てる。
だが、肝心の胡済が現れず、さらにケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、姜維は退却するも追撃を受け、 段谷で散々に打ち破られる。(段谷の戦い)

このとき魏は2桁にのぼる将を斬り、4桁の兵の首級をあげたといわれる。
すなわち蜀は精鋭の外征軍とそれを率いる優秀な部隊長の多くを失ったのである。
魏のケ艾はこの働きで鎮西将軍に昇進した。

張嶷は重病の身を押して出陣したが、演義ではこの戦いで魏軍に追い詰められた姜維を助け出すために、 突撃して陳泰に討ち取られたことになっている。
(正史では254年に魏の勇将・徐質と戦って戦死したものの、張嶷の部隊は味方の損害の倍以上の敵を殺傷している。
張嶷の陣没を聞いた恩顧を受けた多くの異民族は彼の死に涙を溢れ出して慟哭を繰り返し、 その功績の碑文を称え偲んだという。)

最後の戦役の出立に際し、張嶷は後主劉禅に別れの言葉を告げている。
「臣は陛下の恩寵を受けながら、病によっていつ死ぬかわからぬ身となり、 急に世を去りでもして、ご厚恩に背きはしないかといつも恐れておりましたが、 こうして願いが適い、今軍事に参加する機会を得ました。
仮に涼州を平定したならば、臣は外にあって逆賊を防ぐ守将となりましょう。 しかしながら、もし不運にも勝利を得られなかったならば、 わが命を捧げ国家のご恩に報いる所存でありまする」と述べている。
劉禅はその言葉に感動し、彼のために涙を流したという。
その死は多くの人々に惜しまれて、廟(或いは石碑)を建立し、今日まで祀られたといわれている。

戦いに敗れた蜀は西方で離叛が相次ぎ、姜維は諸葛亮に習い失策を認めて 自らを後将軍・行大将軍事へと降格を願い出、敗戦の責任を取っている。
だが、合流地点に到着しなかった胡済については何の責任も問われていない。

・再度の北伐
257年、諸葛誕が反乱を起こすと姜維は再び軍勢数万を率いて北伐を行った。
このとき魏軍は大将軍司馬望が守備を固め、ケ艾が援軍を率いてきた。
さらに次の年になって諸葛誕が敗れると蜀軍は戦わず撤退し、姜維は大将軍に復帰している。
この年、姜維は漢中の防衛について建議し、秦嶺山脈の諸陣地の守備隊を漢城・楽城まで下げ、 敵を深く侵入させて撃滅する作戦をとり、胡済を後方に下げた。
262年、姜維は魏を攻めたがケ艾に撃退された。
演義ではこの262年冬10月、第八回目の戦いで夏侯覇は姜維を庇って戦死したと書かれている。

姜維は軍事面にばかり力を注いで政治面をおろそかにしたうえ、 皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒と女に溺れたため、蜀の国政は混乱した。
姜維は漢中の防衛システムを、従来の堅実で高い防御力を持つが攻撃力に欠けるものから、大勝を目的とするものに変えた。

姜維自身が蜀の高官の中では少数派の涼州出身であったために政府内では孤立しがちであった。
景燿五年(262)、黄皓は大将軍の姜維を追放し、代わりに閻宇を立てようと画策したが、 当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。
姜維もまた黄皓を処刑するよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は以降成都に戻る事が出来なくなった。

黄皓は魏から賄賂をもらって、姜維を北伐の前線から呼び戻すなどして私腹を肥やす悪辣な人物であった。
国内からは、北伐が国力を疲弊する、との批判の声も増えつつあった。

・蜀の滅亡
一方、劉禅の暗君ぶりを聞きつけた司馬昭は蜀討伐に乗り出した。
司馬昭の命を受け、ケ艾は征西将軍として、鍾会とともに蜀漢に侵攻した。
姜維は魏が攻撃準備していると援軍要請を送ったが、黄皓が握りつぶしたため、劉禅に届くことはなかった。
姜維は懸命に抵抗するも、魏のケ艾は蜀の要衝であった剣閣を迂回するという奇襲を行う。

263年、諸葛亮の長子である諸葛瞻は、魏のケ艾が攻めて来るに至って劉禅の命により出撃する。
綿竹に立て籠もって戦い、一度は勝利するもケ艾の猛攻の前に苦戦。
呉に救援を依頼するがその援軍を待たずに出撃。
ケ艾は、手紙を送り降伏を勧めたが、諸葛瞻は受け入れず、息子の諸葛尚と共に最後まで戦って戦死した。
成都を攻略するケ艾に対し、劉禅は降伏を申し入れ、自らを後ろ手に縛らせて魏の大軍を迎えた。
ここに蜀は滅亡した。

このとき黄皓も殺されそうになったが、魏将に賄賂を渡した事から死を免れた。
蜀滅亡の直前には、黄皓は劉禅に巫女の神託による政治を勧めて軍の派遣を阻んだり、 江油城が落城したことを隠蔽したりと滅亡を招いた最大の原因となっている。
黄皓は、最後には司馬昭に五体を切り刻まれて処刑された。

・姜維の計略
姜維はやむなく鍾会に降伏した。
この蜀攻略の際、鍾会は桟道が崩れたことを理由に許儀を処刑し、 姜維を取り逃がしたことを理由に諸葛緒の兵権を取り上げ、配下の兵力を自分のものにしており、 これ以来、鍾会とケ艾の仲は険悪になっていた。
鍾会は、成都攻略など主だった功績の大半はケ艾に奪われてしまったため、ケ艾を妬むようになった。
ケ艾も旧蜀領の占領統治を巡って独断専行的な姿勢が目立ち始めると、内外から不審の目で見られるようになる。

姜維はこれに目をつけ、一世一代の計略をめぐらせた。
自分より功績を立てたケ艾を妬む鍾会をそそのかし、 「反逆の疑い有り」という噂を流し、さらにケ艾の上奏文を書き換えて司馬昭に送らせた。

鍾会・胡烈・師纂らによってケ艾は反逆者とされ、囚人護送車によって送還されることになった。孫盛の史書『魏氏春秋』にいう。
ケ艾は天を仰ぎ嘆息していった、「私は忠臣であった。白起のむごい運命が、今日に再現したのだ」。

これにより鍾会はその兵権をも手に入れた。
自立の野心を抱いていた鍾会は軍の指揮を信頼の置ける者に替え、主だった官僚を幽閉。
そして蜀の領土を奪い、魏からの独立を果たそうとする。
姜維は機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようという計画であった。

しかし鍾会のかねてからの所業の報いか配下の将兵は鍾会に従おうとせず、 幽閉されていた官僚らが生命の危機を感じて暴動を起こしたために計画は失敗し、 鍾会と姜維は共に殺されてしまった。
鍾会は享年40。同行していた兄の息子二人も斬られた。
姜維は享年63。その後、姜維の妻子も皆殺しとなった。
姜維を恨んでいたケ艾の部下が、彼の遺体を切り刻んで胆を取り出したとき、 その胆は1升枡ほどもある巨大なものであったと言われている。

この2人のクーデターの失敗で、ケ艾は自分の軍勢に助け出された。
衛カンは自分が鍾会に従いケ艾を逮捕したことから、復讐されることを恐れた。
そこで、ケ艾に個人的な恨みがあった田続を唆し、ケ艾の軍勢を追撃させ、息子のケ忠と共に殺させてしまった。

このクーデターの混乱に巻き込まれ、張翼や劉禅の息子の1人、劉センも嗣子もろとも殺害されてしまった。
劉禅の子は多くは父同様に暗愚な人物が多かったが、唯一、聡明で剛毅なところがあった劉ェも、 魏が蜀漢に侵攻してきた際、妻の崔氏(一説では崔州平の孫娘ともされる)と三人の息子と共に 祖父・劉備の廟の前で国を失うことを謝り、妻子を殺して自分も自殺したという。
263年、蜀は劉禅の代で潰えた。諸葛亮が五丈原に没してから約30年が経っていた。

●呉の滅亡

孫権の後継者
三国の中では最も長く続いた呉だが、孫権の後継者としていた 孫権の長男・孫登が241年に33歳で早世してから、徐々にその治世には陰りが見え始めた。

244年、陸遜は顧雍の後を継いで丞相となり、引き続き荊州で敵に備えていた。
だが孫登が早くに亡くなったことから、 孫権の三男で皇太子の孫和と、四男の魯王の孫覇の間で呉の後継者問題が紛糾した。

病床にあった孫登は、孫権が寵愛していた王夫人の子であり、 また聡明であるとされた孫和を次の太子に指名する旨の遺書を残したとされ、孫権もそれに従った。
しかし、それと同時に異母弟の孫覇を魯王に立てる。
さらに孫権はこの両名をほぼ同様の待遇で接したため問題が起こった。
群臣の間で太子廃立が行われるという予測が広まったのである。

この動きに魯王派(孫覇派)は太子廃立の工作を強め、太子派(孫和派)はこれを防ぐ工作を開始する。
また孫覇は群臣の言にのって太子廃立に自らも意欲を見せていた。
群臣たちは真っ二つに割れ、陸遜は太子派であったほか、有力豪族は孫和側に付き、孫覇側には全j、歩隲らが付いた。
また、宮中においても孫権の娘である孫魯班(全jの夫人でもある)と 孫和の生母である王夫人の不和が存在していたともされる。

・二宮の変
陸遜は嫡子と庶子の区別は明確にすべきだとして、数回にわたり孫和を擁護する上表を行ったうえ、 首都の建業に出向いて孫権を直接説得しようとした。
そのため魯王派が孫権に讒言した。
特に楊竺は陸遜に関する20条の疑惑事項を告発し、孫権陸遜に対して問責の使者を何度も送り、 これによって陸遜は憤死したといわれる。(二宮の変)
245年の出来事であった。享年62。
当初、両勢力は拮抗していたが、陸遜が憤死すると一気に形勢が孫覇側に傾く。

なお、この疑惑については、陸遜の死後、次男の陸抗が全て晴らしている。(陸遜の長男は早くに亡くなっている)
当時の孫権陸遜に対する疑念を解いておらず、拝謁に来た陸抗に対して詰問したが、 陸抗は臆することなく申し開きしたため、信用を取り戻すことが出来た。
後に陸抗が療養のため建業に帰還し、治癒して任地に戻る際、孫権は泣いて別れを惜しみ 「先だって、朕は讒言を信じ、卿の父君の信義を裏切ってしまった。
卿に対しても、非常に申し訳なく思っている。
どうか、送りつけた書簡を全て焼き捨て、人の目に触れぬようにして欲しい」と語ったという。
その後、陸抗は奮威将軍、征北将軍、鎮軍将軍といった高位を歴任する。

・後継者政争
さらに太子太傅の吾粲は処刑され、顧譚、張休ら太子派の重要人物が次々に左遷(もしくは流刑)されるに至った。
また246年の人事改変で全jが右大司馬、歩隲が丞相になるにおよび、魯王派が主導権を握った。
しかし、翌年にはその両名が相次いで死亡すると再度事態は混迷化する。
結局孫和派はこの機会を生かしきれず再度勢力は拮抗、ここにいたり事態は完全に泥沼化してしまう。

250年、ようやく孫権はこの政争に対する決断を下す。
太子孫和は廃され(後に南陽王)、魯王孫覇は死を賜った。
さらに孫覇派のうち積極的な工作を行っていた孫奇、呉安、全寄、楊竺らをことごとく 誅殺した(呉録によれば、孫権と楊竺は孫覇を皇太子に立てることを密談で決定したという。
陸遜は、孫権と楊竺が密談で廃立を決定したという情報を皇太子から陸胤を通じ入手したため上表などを行い、 密談の内容が漏れたと考えた孫権は問責の使者を送ったという。
陸遜は陸胤から聞いたと答え、陸胤は太子をかばって楊竺から聞いたと答えた。
楊竺は厳しい取調べに耐え切れず、自分が漏らしたと答えたため処刑された)。
皇太子には新たに孫亮を立てることとして幕引きをはかった。

・2代目 孫亮
しかし、新たに立てられた皇太子孫亮はわずか8歳であった。
魏と対立状態にあった呉には強いリーダーが必要であったはずであるが、 8歳(即位時は10歳)の子供にそれを期待することは(才覚以前の話であり)できるはずはなかった。

孫権は側近で佞臣とされる呂壱を重用する一方で、後継者問題で太子を擁護した名将陸遜を憤死させたり、 王表という神を信じて福を求めたりするなど老害が目立っていた。
252年に孫権が死ぬと、権力は家臣の大将軍諸葛恪(彼は元太子派であり、246年の人事改変でも失脚せずに残っていた。
一説には孫覇派と通じていたともいわれる)、そして武衛将軍で元孫覇派であった孫峻に握られることとなった。
はじめは諸葛瑾の子・諸葛恪(諸葛亮の甥)が後見として、文武にわたり大権を振るうようになる。

この頃、司馬昭率いる魏軍が、孫権が死んだ隙を付いて呉に攻め込んできた。
しかし宿老・丁奉は魏軍を大いに破るという功績を立て、滅寇将軍に封じられた。
この撃退に気をよくした諸葛恪は、周りの諫めを無視し、 衰退した国力で魏を討つため大勝を求めた遠征を起こすが、無惨な失敗に終わり人望を失い失脚。
そして253年孫峻達のクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り一族皆殺しにされてしまう。
諸葛恪亡き後、孫峻が孫亮の補佐役に納まって実権を握った。

254年には元太子派の行動が活発となり、孫登の子孫英が孫峻暗殺に失敗し自害した。
256年、孫峻は38歳の若さで病死してしまい、同族の孫チンが孫亮を補佐した。
その翌年には王惇らが打倒孫チンを目指すが、逆に孫チンは政敵に当たる滕胤と呂拠を殺害して大将軍となり、 専横の極みを尽くした。
257年には諸葛誕のクーデターに乗じて再び魏に攻め入るが、失敗している。

・3代目 孫休
258年、孫亮は、勝手な振る舞いをする孫チンを除こうとするが、事は事前に漏れてしまう。
孫チンによって孫亮は廃位となり、会稽王に格下げされた。
代わりに孫権の六男・孫休が孫チンにより擁立された。
260年、孫亮は死去したが、その死には毒殺説など異説が多い。

孫チンは、孫休を天子に立てたことで、さらに威勢を振るい専横を募らせた。
さすがに孫休も傀儡になることに耐えかね、重臣の張布、宿老の丁奉らと図り、 孫チンに反意ありとして、酒宴に招いたところを捕らえ斬罪に処し、皇帝権力を取り戻した。
このように内紛は続き、結局その間に魏は蜀を併呑してしまったのである。

孫休は聡明な性格であり狩りを好む人物だったと史書に述べられている。
政治家としてより文人としての性格であり、次第に朝政から距離を置き、張布が朝政を掌握していた。
蜀が魏に滅ぼされるという報せが届き、孫休は魏の脅威に備えた。
さらに、魏を奪った司馬炎が晋を興したとの報せが入る。孫休は憂慮の余り、病に倒れた。

・4代目 孫皓
264年、孫休は崩御直前に後継者として孫ワンを指名した。
しかし幼少であるとの理由で張布が反対し、甥の孫皓が皇帝に即位した。
孫皓は、才識明断として推されたはずだった。

孫皓は即位すると直ちに皇太子を廃された父である孫和の名誉回復を行って昭献皇帝、 のちに文皇帝と追尊し、大々的な祭祀を行わせ、政府の食糧などを開放し貧民救済を行うなどしている。
しかし刑罰を濫用して多くの家臣を処刑するなど次第に暴君としての性格を見せていく。
史書には無理矢理家臣達に飲酒を強要し、酩酊状態で僅かでも問題のある言動があれば処罰を加え、 265年には都城を建業(今の南京)から武昌(今の湖北省鄂州市)に遷都する事業を強行、 また後宮に何千もの女性を入侍させ、意にそぐわない宮女を殺害し、宮殿内の川に死体を遺棄したと伝えられている。

その時代、三国鼎立していた蜀が滅亡し、魏では司馬炎による禅譲が行われて西晋が誕生していた。
しかし晋朝では呉との主戦派と講和派の間の政争があり、呉はしばらくの間滅亡を免れる。

陸遜の末裔たち
呉朝廷では陸遜の末裔である陸凱、陸抗、陸イを初めとする陸氏が衰退する呉を支え、 孫皓も陸凱、陸抗が生きている間は陸氏の政策を傍観していた。
しかし西晋による侵攻と、呉に反旗を翻す者も増加し呉の国勢は衰退の一途をたどることとなった。

陸凱は公正清廉な人物で、人望もあったが、態度は剛直だったようだ。
暴君である孫皓が即位してもそれを改めず、孫権の時代を引き合いに出して諫言し続けた記録が残されている。
孫皓も、孫権時代からの功臣を殺すわけにもいかず、266年には左丞相に就任した。
269年の死の間際まで呉の将来を憂えていた。陳寿は『三国志』で「大丈夫として最高の仕事を成し遂げた」と評している。

鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡が城ごと謀反すると、陸抗は西陵を落とす困難さや晋からの侵略を見越した上で、 広大な包囲陣を敷かせた。
突貫工事で人々が大いに苦労したため、この作戦を諫める声が相次ぎ、 早急に攻撃を仕掛けて落とすべきだとの意見が大半を占めた。
陸抗は、一度だけ攻撃を許可したが、果たしてなんの成果も上げられなかったので、 将軍たちは陸抗に従った。実は、西陵城の防衛や装備は全て、かつて陸抗が指揮・整備させたのであり、 それを攻める困難さを陸抗自身がよく承知していたのである。
やがて、晋の車騎将軍・羊コが江陵へ侵攻してくると、部下たちは江陵の防衛に回ることを提言したが、 陸抗は「江陵は防備が固く、食糧もしっかりと備わっている。 よしんば落ちたとしても、敵はその城を維持できまい。 だが、西陵は別だ。ここを奪われれば、南方の異民族にも影響を与える。 そうなったときの憂慮を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」として、動かなかった。
一方で、羊コが船を使って江陵へ食糧を運ばせようとしたとき、陸抗はあらかじめ堤を切って輸送手段を断たせ、 このため晋軍は輸送に大幅な損害を出した。
この後も晋軍の増援があり、対峙中には叛将も出たが、陸抗はよくこれに対処して防いだため、遂に晋軍は帰還していった。
こうして、孤立した西陵城へ総攻撃を掛けさせ、ようやく反乱を鎮圧することが出来た。
この時、謀反を起こした首魁である歩闡とその一族、幹部級の武将や軍官は処刑されたが、その他の数万に上る将卒は赦免した。
当時の反乱に対する処罰としては、かなり寛大な処置である。

反乱を鎮圧した陸抗は、西陵城を修復して自領へ戻った。
大功であったにもかかわらず、それを一切誇ることが無かったため、将士は以前にも増して厚く陸抗を敬ったという。

273年、陸抗はあらためて大司馬に任じられ、荊州牧の職を授けられたが、274年の夏、病篤く逝去した。
亡くなる前に奉った上疏の表において、領土防衛と募兵制について詳細な案を述べており、 いっこうに国情の休まらないことを憂える文で締めくくられている。
最後まで安んじることなく国を憂えて亡くなった。

『晋春秋』という書物によれば、晋の武将・羊コとは魏呉国境を挟み任地が隣であり、 敵同士ではあったが才能を認め合い、互いの領地を侵さないことを暗黙の了解としていたという。
しかし、両者とも立場をわきまえ、情誼に溺れて手心を加えることはなかった。

過労のためか病気がちであった陸抗へ、あるとき羊コが薬を贈った。
呉の武将たちは、敵からの贈り物だから信用ならないと反対したが、 陸抗はためらわずにそれを服用し、なんの異常もなかった。
後日、陸抗は薬の返礼として酒を贈り、羊コもまた、毒見もせずにすべて飲んだ。
両者が信頼や信義というものを身をもって示すこと、このようであった。
『三国志演義』では、このやり取りによって孫皓の疑念を招き降格させられたが、史書ではそのような記載はない。

・呉の滅亡
陸抗、陸凱らが死去し、次第に孫皓に諌言する者もいなくなり、呉の人心も離れていった。
ついに司馬炎は、杜預を大都督に任じて南征軍を興す。
晋軍は水陸両用から押し寄せ、建業の都へと迫った。
約20万の軍勢といわれる晋軍に対して呉軍の兵士たちは次々と投降、 晋の軍勢が建業に迫ると臣下たちに迫られ寵臣の岑昏を斬殺し士気を高めようとしたが、 280年に王濬が建業を陥落、孫皓は降伏し、ここに呉は滅亡した。

降伏に際して孫皓は家臣達に書簡を送り、呉滅亡の責任を一身に負い家臣には晋に仕官し才能を発揮するようと伝えている。
晋に降伏した孫皓は帰命侯に封じられ、劉禅と同じく天寿を全うした。

孫皓は三国志に出てくる登場人物の中でも一番残虐な性格と言われ、人の顔の皮を剥ぐなど、 ありとあらゆる拷問を行った暴君であったとされる。
そのためか陳寿の『三国志』上での評価も否定的な記述が目立ち晋は孫晧の降伏を許さず 腰と首と断ち(腰斬刑、通常の死罪よりさらに重罪人に適用された)、万民に謝罪すべきであったと酷評している。

孫堅から連なる呉の系譜は、孫策が復興し、孫権→孫亮→孫休→孫皓と世代は交代したが、ついに滅亡の時を迎えた。
280年、ここに呉は滅び、天下は晋のもとに統一され、三国の時代は幕を閉じた。

●中国統一後

・晋の司馬炎
統一後の司馬炎は朝政への興味を失い、また中国統一を達成したことにより軍隊の縮小も実施された。
中国統一後の司馬炎の業績とし特筆すべきは太康元年(280年)から始まった占田・課田法であろう。

司馬炎は女色にふけったことでも知られる。
統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅を以って女子の婚姻を暫時禁止し、 自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、 呉の皇帝であった孫皓の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。
合計一万人もの宮女を収容した広大な後宮を司馬炎は毎夜羊に引かせた車に乗って回った。
この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。
そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿しておき、塩を盛っておいた。
羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。
この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。
なお、一万人の女性といっても、后などを世話する女官などの数も入っているため、 実際に司馬炎が一万人の女性を相手にしたというわけではない。

在世中には匈奴・鮮卑の侵攻に悩まされ続けた。
さらに、後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、 従来の漢人住民とトラブルを起こすようになっていた。
侍御史の郭欽は、呉を統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳をもたなかった。
太康5年(284年)以降、天災が相次ぎ、日食もしばしば起き、人心は荒廃した。
こういった中、太熙元年(290年)夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で崩御し、その遺体は峻陽陵に葬られた。

・司馬炎の歴史的評価
司馬炎は、父・司馬昭の敷いたレールに乗って、晋王朝を創始した。
しかし、王朝の開祖としてはあまり英明でなく、どちらかというと2代目または3代目的な人物であるともいえよう。
苦労を知らず、統一後の国家の基盤形成を怠ったことは西晋が早く滅亡する要因ともなった。
高官の者に対する賄賂がはびこり、九品官人法批判で知られる劉毅は司馬炎を後漢の桓帝・霊帝に引き比べて批判した。
また、司馬炎が皇族をあちこちの王に封じて、軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族の間の争いを誘発することとなり、 八王の乱の遠因となった。異民族に対して何ら対策らしい対策をしなかったことも、 これら異民族が華北で争乱を起こす原因ともなった。
また、賈妃に騙され暗愚な息子であった司馬衷を次期皇帝としたことも、 八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。
そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。

何はともあれ、司馬炎は一時的に中国を統一したものの、異民族の中原への侵入など、 中国の分裂を引き起こす要因に何ら為すすべを持たなかった、所謂典型的な暗君であった。
そして、結果的には北方遊牧民族(鮮卑)による華北への侵入を始めとする南北朝時代の争乱の遠因にもつながった。
本格的な統一王朝の出現は楊堅による隋の統一を待たねばならなかったのである。

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