■ 三国故事成語

・ここでは、三国志の物語から生まれた、もしくは有名になった故事成語を紹介していきます。
 物語に加え、こういった知識を得ることで、より三国志を楽しむことができると思います。
・執筆者は三国志に関して専門的な知識を持っているわけではなく、あくまで個人的に情報を調べ、まとめ上げたものにすぎません。
 三国志に詳しい方で、内容に誤りがある等のご指摘をいただけますと、辞典がより完璧なものになると思っております。
 是非とも、ご協力をお願い致します。

● 白波(しらなみ)

黄巾賊の乱が鎮圧されたのちも、残党は各地にひそんで、しばしば略奪行為をはたらいていた。
山西省の白波谷にたてこもった黄巾賊の残党が、洛陽をおびやかしたのは188年のことである。

ここから、後に盗賊のことを「白波」というようになった。

● 月旦(げったん)

当時は人物評論がさかんに行われ、人々は寄り集まって、どこの誰はどういう人物かを語り合った。
とくに汝南にいた許劭は優れた人物批評家であり、 彼の下す評価は適切なので、多くの人がそれを聞きたがった。
毎月、月の初めに人物評を行ったため、人々はそれを「汝南の月旦」とよんでいた。

月旦とは月のはじめのことだが、ここから人物評のことを「月旦」あるいは「月旦評」というようになった。
また許劭が、若い頃の曹操を見て「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したというのは有名な話である。

● 髀肉之嘆(ひにくのたん)

荊州の劉表のもとへ身を寄せた劉備には、久しぶりに平和な日々がおとずれた。
戦場を駆け巡っていた頃には引き締まっていた体も、あちこちに贅肉がつきはじめる。
ある日、宴席の途中で厠へ行った劉備は、太もも(脾肉)に肉がついているのに気づき、愕然とした。
「なんということだ。志も果たせないで、こんな所で日を送っているうちに、太ももには肉がつき、 体はすっかりなまってしまった」
劉備は思わず涙を流した。席にもどった劉備の頬に涙のあとを見つけ、劉表はその理由をたずねる。
劉備は答えた「かつて常に馬に乗って四方を行き来していた頃は、脾の肉は鞍におされて ほとんどついていなかったのに、いまは馬にも乗らないので、こんなに厚く肉がついてしまいました。 月日はどんどん流れてゆき、老いは間近に迫っているというのに、いまだに功業も立てられず、 こうしていたずらに暮らしているのを嘆いていたのです」

ここから、活躍したり名を上げたりする機会がないのを嘆くことを「髀肉之嘆」という。

● 三顧の礼(さんこのれい)

三国志でもよく知られているエピソードの一つ。
劉備は、水鏡先生こと司馬徽から「伏龍、鳳雛を得れば天下もとれよう」と教えられたと言われる。
やがて劉備は伏龍・諸葛亮を迎えようと、使者をやることも呼び招くこともせず、 自らの足で諸葛亮の住む草盧を訪れた。
一度目、二度目は留守であったが、訪問すること三度でようやく諸葛亮と対面することができ、 説得に成功することができた。

ここから、丁寧に頼み込むこと、あるいは最大の敬意をはらって迎えることを 「三顧の礼をふんで」といったように使われる。

● 水魚の交わり(すいぎょのまじわり)

諸葛亮を迎えた劉備は、一日中諸葛亮と話し込んでいた。
たまりかねた関羽と張飛が「孔明ばかりを持ち上げすぎるのではありませんか」というと、 劉備は「わしが孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ」といって相手にしなかった。

ここから、この上もなく親しい間柄を表す、あるいは離れがたい非常に親密な交際のたとえを 「水魚の交わり」というようになった。

● 苦肉の策(くにくのさく)

苦肉の計、とも言われる。三国志でもよく知られているエピソードの一つ。
赤壁の決戦を前にして、呉の老将・黄蓋は周瑜を策を練り、 曹操軍に偽りの投降をして、敵陣深くに入り火を放とうと考えた。
しかし曹操軍に投降を信じさせるためには、それなりの理由がなくてはならない。
そこで黄蓋は、わざと周瑜の作戦にケチをつけ、周瑜の怒りを買って百叩きの刑を受ける。
当時呉軍に潜伏していた蔡和、蔡中が、このことを曹操に報告するであろうと読んだ上での 芝居であったが、中途半端では見破られる可能性があったため、 実際に刑吏は本気で黄蓋を打ち据え、黄蓋は血まみれで倒れ伏した。 これが「苦肉の計」である。
この計によって投降を信じ込まれた黄蓋は、曹操軍の敵中深くに入り込み火を放ち、 呉軍は大勝利を収めるのである。

ここから自分の身を苦しめてまでも敵をあざむくはかりごとや、 苦しまぎれに考えだした手段、などという意味で「苦肉の策」と用いられる。

● 白眉(はくび)

劉備が荊州、南郡、襄陽を手に入れたとき、 諸葛亮(三国演義では伊籍)は「賢人を召しいだして治め方をたずねるといいでしょう」 と進言し、馬家の五兄弟を推挙した。
五人はいずれも才名をうたわれていたが、中でも馬良(おそらく四男)が秀でていた。
馬良は眉に白い毛が入り混じっており、また兄弟皆、字に「常」がついていたため、 人々は「馬氏の五常、白眉もっともよし」 (馬氏には五人のすぐれた子がいるが、白い眉の馬良がもっともよい)とほめたたえた。

ここから、兄弟中で最も優れている者、 また衆人の中で最も傑出した者、同類中で特に優れているものを 「白眉」というようになった。

馬氏の五兄弟には、後に泣いて斬ることになる馬謖もいるが、 他の3名は三国志に名前が出てこないようである。
ちなみに馬良の字は「季常」、馬謖の字は「幼常」である。

● 鶏肋(けいろく)

劉備が蜀を得、張魯を下した曹操が兵を動かし漢中を奪還しようとした。
しかし劉備軍は曹操が着く前に周辺の軍勢をすべて要害にたてこもらせ、 戦おうとせずに守備を固めていた。
曹操は軍を進めようとすれば馬超にはばまれ、かといって引き揚げようとすれば 蜀の笑いものにされるので、それが口惜しくて思いとどまっていた。
ある日、料理番が鶏の吸い物を出した。曹操は碗の中の鶏の肋を見ていた。
その時、夏侯惇が来て、「今夜のご命令は?」とたずねた。
「鶏肋」じゃ、と曹操はとっさに口にした。 夏侯惇は大将たちにそれを伝え、全軍にその命令が行き渡った。
しかし属官たちはなんのこどだかわからない。 ところが、行軍主簿の楊修は、ただちに荷物をまとめて引き揚げの準備をはじめた。
夏侯惇が楊修にその理由をたずねると、楊修は答えた。
「鶏肋は、食べようとしても肉はないが、かといって味わいがあるので捨てるには惜しい。 漢中はそういう土地だという意味でしょう。明日、陣払いをなさるに相違ありません」

ここから、大して役には立たないが、捨てるには惜しいもののたとえを「鶏肋」と いうようになった。

三国志演義では、その夜、曹操が陣中を歩いていると、夏侯惇の陣中で兵士たちが荷物をまとめていた。
驚いて夏侯惇にわけを聞くと、楊修が曹操は陣払いする意向だといったとのこと。 楊修に問いただすと、鶏肋の意味を答えたので、曹操は、 「よけいな事をいって、士気を乱した」と怒り、打ち首にした、と書かれているそうである。
「魏書・曹植伝」によると、楊修は曹操の後継者をめぐっての争いに巻き込まれ、 才気がありすぎるのを警戒されて殺された、となっている。 (曹操は曹丕を後継者と決定したが、楊修は曹植派であった)
いずれにしても楊修は、曹操が漢中攻略に失敗した年に殺されたのであった。

● 呉下の阿蒙(ごかのあもう)
● 士、別れて三日、刮目して相待す

下は「し、わかれてみっか、かつもくしてあいたいす」と読む。
呂蒙ははじめ武芸のみの人物であったが、努力して学問を身につけ、 関羽を打ち破るほどの呉の名将となった。
この故事は「呉書・呂蒙伝注」に記されている。三国志でもよく知られているエピソードの一つ。

孫権が、呂蒙と蒋欽に「重要な地位についたのだから、 学問をしなければいかん」といったことがあった。
呂蒙は、「陣中が多忙なので、読書する暇がありません」と答えた。 すると孫権は呂蒙をこんこんと説いた。
「べつに経典を治めて専門の学者になれというのではない。ひととおり読んで、 過去の例を知っておけばいいのだ。
多忙というが、わしに比べたらどうだ。 わしは若い頃、詩経、書経、礼記、左伝、国語など片端から読んだ。
易経は読まなかったがな。政事を行うようになってからは、 三史と諸家の兵法書を読んだが、大いに益するところがあった。 おまえたちは頭がいいから、学べば必ずものになる。
まず、孫子、六韜、左伝、国語、三史を読むんだな。 孔子も『終日食らわず、終夜寝ねず、もって思うも益なし、学ぶにしかざるなり』といっている。
光武帝は陣中でも書物を手放さなかった。曹操も、年をとっても学を好むといっている。 おまえだけ学ばないでいいということはない」
これを聞いて、呂蒙は学問を始めた。熱心に努力したので、やがて昔の学者も及ばないほどの 本を読破するに至った。
その後、魯粛が病没した周瑜の後任として任地に赴くことになった。 魯粛はその途中で呂蒙を訪ね、話し合ってみて驚いた。
むしろ自分のほうが圧倒されるほどである。 魯粛は呂蒙の背をたたいて言った。
「わしはおまえさんを武略だけの人間だと思っていたが、いまでは学識も深い人物になったではないか。 もう"呉下の阿蒙"ではないな」
呂蒙は答えた。 「士たるもの、三日会わなければ刮目して相手を見なければいけません。 (成人男子たるものは、三日会っていないなら、よくよく目をこらして、 相手を見極めねばなりません)
あなたが今おっしゃったことは、ぼんやりして自分の身に何が起ころうとしているのか 気づかなかった秦の穣公と同じではありませんか」

ここから、学問のない人間や、いつまでも進歩しない人間を 「呉下の阿蒙」というようになった。
また呂蒙が言った「士、別れて三日、刮目して相待す」は、 事態の変化を常に敏感にとらえなければいけない、 または相手をいつまでも同じ先入観で見てはいけない、といった意味で使われている。

ちなみにこの話では出てこないが、蒋欽もまたこの時、努力して学問を身につけ、 呉の名将に数えられるほどに成長したという。

● 危急存亡の秋(ききゅうそんぼうのとき)

諸葛亮が劉禅に奉呈した「出師の表」の中にある言葉で、 危機が今まさに迫っていて、存続か滅亡か、ここで決まろうとしているような 時を「危急存亡の秋」という。
「出師の表」とは昔から「これを読んで涙を流さぬ者は人にあらず」と いわれているほどの名文である。

● 泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)

三国志でもよく知られているエピソードの一つ。 「涙を揮(ふる)って馬謖を斬る」とも。

馬謖は才能はある人物であったが、劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終する間際にも、 「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要なことを任せてはならない」 と念を押すほどであった。
しかし諸葛亮は馬謖を可愛がっていたため (兄の馬良と諸葛亮に親交があったからとも言われる)、 蜀軍の北伐の際、街亭の戦いにて、馬謖が戦場に赴くこととなったが、 諸葛亮の命令に背き、死地に布陣したために魏軍に大敗してしまった。
誰よりも馬謖を評価していた諸葛亮であったが、敗戦の責任は問わねばならない。 諸葛亮は涙ながらに馬謖を処罰した。

個人的な感情としてはそうしたくはないが、全体観に立って、非情なふるまいもあえてしなければ ならない、また処分するに惜しい人物であっても、 違反があったときには全体の統制を保つために処分しなくてはならないようなとき、 「泣いて馬謖を斬る思いで…」と表現することがある。
今ではあまり使われる機会はないが、この出来事は故事に残されている。

● 死せる孔明、生ける仲達を走らす

三国志でもよく知られているエピソードの一つ。
「しせるこうめい、いけるちゅうたつをはしらす」と読む。
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言われることもある。

諸葛亮の第五次北伐の五丈原の戦いの時、魏蜀はにらみ合っていたが、 諸葛亮は天命に抗えずついに没してしまった。
諸葛死したりと見た司馬懿は、この機を逃さず蜀軍を追撃する。
しかし諸葛亮は死の前に楊儀に策を与えており、 魏軍が追いついたと思ったとたん、山陰に石火矢の音が響き、 喊声がわいた。同時に蜀の軍勢が向きをかえる。
見ると、中軍の大旗には「漢丞相・武郷侯諸葛亮」と記されていた。 司馬懿は顔色を変えて目を凝らすと、軍中から数十人の大将が四輪車をとりまいて現れた。 車には諸葛亮が座っている。
これは諸葛亮がかねてから彫っておいた木像で、「仲達はこれを見れば必ず逃げ出すであろう」 と諸葛亮は予言していた。
木像とは知らず、司馬懿は諸葛亮が死んだと見せかけて自分をおびき出したのだと思った。
「うかうかと深追いして、計略にかかったか」と叫ぶや、あわてて逃げ帰ろうとする。
背後から姜維が、「見よ。丞相の計にかかったぞ」と声をかけた。
司馬懿は生きた心地もなく、五十里あまり走った。 二日たって土地の者が「やはり孔明は死んでおり、車に乗っていたのは木像でした」と知らせてきた。
司馬懿は「生きている人間なら、なんとか計略にかけられようが、死人相手ではいくらわしでもどうにもならん」といった。

これを見て人々は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやした。
特別に何かのたとえとして使われることはほぼないが、故事としては残されているエピソードである。

● 読書百遍義自ら見わる

「どくしょひゃっぺんぎおのずからあらわる」と読む。

魏に董遇という学者がいた。彼は若い頃から熱心な勉強家であった。
家が貧しかったので、稲を拾い集めてはそれを背にしょって売り歩き、 そうしながらも経書を読んでいた。
あるとき董遇のもとへ、弟子入りしたいといってきた男がいた。 董遇はその男に言い聞かせた。
「私なんかの弟子になるより、一冊の本を何度も何度も繰り返しお読みなさい。 同じ本を百篇読めば、作者が書こうとしていたこと(義)は、 おのずからあらわれてくるのです」

ここから、乱読を戒め熟読の必要を説いた句として故事が残された。

● 白眼視(はくがんし)

阮籍は、周瑜が死んだ年(210年)に生まれ、蜀が滅亡した年(263年)に死んだ人物で、 竹林の七賢といわれた人たちの中心者であった。
社会の決まりにとらわれるのを嫌い、勝手気ままな行動をとることによって、 時代の風潮を批判したことで知られる。
当然、数多くのエピソードを残しているが、その一つに母が死んだときの行動がある。
当時は礼法が重んじられていたが、彼は服喪の規則を頭から無視して、 あくまでも自分の感情に忠実であろうとしたのである。
阮籍は、弔問にやってきた客に応対するときも、礼法にうるさい相手には白目をむき出し、 そうでない友人には青眼で接した。

ここから、意地の悪い目で見ること。冷遇すること。冷淡であること。にくむこと。 を「白眼視」といわれるようになった。

● 破竹の勢い(はちくのいきおい)

晋の鎮南大将軍、杜預は、字を元凱といい、博学で兵法にも長けていた。
彼が呉を攻めたときのことが「三国志演義」の最後の章に描かれている。
このころ蜀は魏に滅ぼされて、既になくなっていた。 そして司馬氏が禅譲によって魏の王朝にとってかわり、晋王朝を建てていた。
呉の首都は建業にあったが、杜預の率いる軍勢はすさまじい勢いで南下し、建業の間近に迫った。
杜預はそこで、配下の諸将を一堂に集め、建業攻略の策を評議した。 そのとき、胡奮がいった。
「呉は百年来の大敵で、完全に帰順させるにはまだ手間がかかりましょう。 しかも現在は春先で大水の季節なので、長く留まるのは不利です。冬まで待つべきではありませんか」
これに対し杜預は「わが軍の士気が大いにあがっている今、破竹の勢いで進めば、 数節のうちには声を聞いただけで降り、攻める必要もなくなろう」といって、 いっせいに兵を進めた。

「節」とは、一年を二十四節に分け、一節を十五日とする数え方だが、 竹のフシの意味もかけられている。竹を割るには二節、三節と割れば、 その勢いであとは勝手に割れる。
つまり竹は一節を割ればあとは一直線に割れることから、 物事の勢いが激しく、とどめることができないさま、 勢いに乗って勝ち進んでいくことを「破竹の勢い」というようになった。

● 曹操の話をすると曹操が現れる

中国で使われていることわざ。「説到曹操、曹操就到」。
講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、 日本語での「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用されるらしい。

● 司馬昭之心、路人皆知

中国で使われていることわざ。
260年、司馬昭打倒の兵を挙げようとした曹髦は、諫める王経らに憤慨して 「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている(司馬昭之心、路人皆知)。 吾は座して廃位の辱めを受けることはできない」と言った。

この言葉は現在の中国では「顔に書いている」「みんなお見通し」という意味で日常的に使用されるらしい。
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