■ 三国マメ知識

・ここでは、三国志のちょっとしたマメ知識を用意しているコラムです。
 知っていれば知識欲が満たされ、また三国志がより面白くなるでしょう。
・執筆者は三国志に関して専門的な知識を持っているわけではなく、あくまで個人的に情報を調べ、まとめ上げたものにすぎません。
 三国志に詳しい方で、内容に誤りがある等のご指摘をいただけますと、辞典がより完璧なものになると思っております。
 是非とも、ご協力をお願い致します。

● 魏の初代皇帝は曹操ではなく曹丕

よく勘違いされがちだが、魏の初代皇帝は曹操ではなく曹丕(曹操の次男)である。
曹操は魏国の礎を作った人物ではあるが皇帝は名乗っておらず、「魏公」である。

三国時代の対比される3人として曹操、孫権、劉備とあるが、 皇帝を名乗った3名とするなら曹丕、孫権、劉備が正しい。
しかし魏という大国を作り上げたのは曹操といっても間違いではないため、 光栄は特に曹操、孫権、劉備という3人の図式を重視している。
もちろん光栄作品以外にも、この傾向は見受けられる。
ちなみに孫権は曹操、劉備と比べ、一世代ほど若く、三国の君主としては最も長寿であった。

● 三国志の時代の日本

中国で群雄割拠していた三国時代、実は日本では弥生時代にあたる。
邪馬台国を治めた倭国の女王(倭王)卑弥呼は248年頃没したと言われ、 諸葛亮が没したのが234年である。
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、 正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とあり、倭国のことが書かれている。
また卑弥呼は243年、魏に使いを送ったと言われているが、 この魏こそ曹操からなる系譜の大国である。
この頃の魏皇帝は三代目曹芳である。(魏の初代皇帝は曹操ではなく曹丕であることに注意)

また中国の歴史書によると、 桓帝・霊帝の間(146年 - 189年)、倭国大乱の時代。
その後、邪馬台国を治めていた卑弥呼を共立し、倭を治めたこと。
239年に難升米らを中国の魏に派遣。親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられたこと。
243年、魏に遣使したことなどが確認できるという。

孔子、太公望ら賢人がいた時代のはるか後、 三国が諸葛亮という稀代の奇才を輩出していた時代、 我々はまだ卑弥呼の時代であったというのだから、 中国の4千年の歴史の長さには驚かされる。

● そろばんの発明者は関羽?

そろばんの起源については諸説あるが、バビロニア起源説と中国起源説が有力である。
ちなみに中国説の場合、生みの親は誰かという場合、 商売の神として崇められている、三国志の武将、関羽というのがもっぱら定説になっているが証拠はない。とある。
(Wikipediaより。関羽の頁そろばんの頁。)

● 饅頭を生み出したのは諸葛亮?

饅頭(まんじゅう)とは、中にアンコなどを入れた菓子としてよく食べられているが、伝承によれば、 3世紀の中国三国時代の蜀の宰相諸葛亮が南征の帰途、 川の氾濫を沈めるために川の神へと人柱を立てて、 人の首を川に沈めるという風習を改めさせようと、 小麦粉で練った皮に肉を詰めそれを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、 川の氾濫が静まった故事からこの料理が始まったという説がある。

ただしこの説は北宋時代に書かれた『事物紀原』の創作を起源とし、 のちの明時代に書かれた『三国志演義』(フィクション)で多く知られるようになり、 一般に流布し、このように解説されることが多い。
ちなみに中華思想から見た場合、南の部族を南蛮と呼び南蛮人の頭であることから、 「蛮頭」が最初の名前であったとされ、発音は同じ“マントウ”である。
その後、饅頭は川に投げ入れるのももったいないので祭壇で祭った後、食べられる様になったため、 饅頭は当初は頭の形を模して大きかったものが、段々小さくなっていったと言われている。
一方、「神を欺き、本物の頭だと信じ込ませる」ことから「瞞頭」と最初で呼ばれる説もある。

日本の饅頭の起源には2つの系統がある。 ひとつは、1349年に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。
その際、禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。
しかし従来の饅頭は肉を使ってしまう(本来の仏教では肉食は禁じられていないが、 日本では肉食を禁じた)ので、代わりに小豆を使った饅頭が考案されたと言われている。
その後、林浄因は、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立て評判になった。
お盆の行事として8月1日は釜の蓋と称し饅頭の日でもある。 林浄因は漢國神社境内社の「林神社」に祀られ、製菓業者の信仰を集めている。

もうひとつの系統は、林浄因が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241年に 宋に渡り学を修めた聖一国師が、福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。
聖一国師は、辻堂(つじのどう=現・博多駅前一丁目)に臨済宗・承天寺を創建し、 博多の西、荒津山一帯をたく鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の 主人に饅頭の作り方を伝授したと。
このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。
奈良に伝わった饅頭は、ふくらしこ粉を使う「薬饅頭」で、博多のほうは甘酒を使う「酒饅頭」とされる。

日本に定着した後、餡や皮の製法にさまざまな工夫が凝らされ、種々の饅頭が作られるようになった。
(Wikipediaより。饅頭の頁。)
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