■ 合肥の戦い〜曹操の死去

●合肥の戦い

・三国成って
孫権は蜀を得た劉備に対し、魯粛を使者に立て荊州を返還するよう要請した。
荊州を守備する関羽と交渉にあたり、孫権は謀によって関羽を闇討ちしようと企んでいたが、 会談がこじれる中、周倉が横合いから「天下の土地は徳にある者が治めるのだ。
東呉のものではない」と罵声を上げると、これに怒った関羽に退出させられる。
しかし、これは会談での闇討ちを予見していた関羽によってあらかじめ決められていた合図だった。
退出した周倉は江岸で旗を振って味方の水軍に合図を送り、 関羽もまた魯粛を人質に取ったので、関羽らは難を逃れた。
こうして魯粛は交渉に失敗してしまう。 (正史では魯粛の手腕により交渉は成立している)

215年、曹操の圧力に苦しむ献帝を助けんと、伏皇后が伏完に書状を出す。
伏完は曹操を排除せんと画策するが、書状が曹操に漏れ失敗。 伏完、伏皇后の一族は皆殺しにされてしまう。
曹操は娘の曹節を献帝の后にさせ、さらに権力を大きくした。

曹操、張魯を攻める
曹操は呉蜀の攻略の前に、まず征西して張魯を攻めた。
張魯は降伏しようとするが、弟の張衛が頑強に反対したため、抗戦することとなった。
張衛は楊昂や楊任を引きつれ守備にあたる。

曹操軍の先鋒部隊をまずは撃退することに成功するが、 楊昂が楊任が止めるのも聞かず無謀な出撃をしたことによって曹操軍に敗れ、 再度出撃するも楊昂は張コウに、楊任は夏侯淵によって討たれた。
張衛も退却し、張魯らは巴中に撤退することを余儀なくされる。
この際、張魯は財宝の入った蔵を「国家のものだから」と焼き払わずに封印した。

迫り来る曹操軍に張魯は降伏を考えるが、反対した張衛は残った兵をかき集めて抵抗した、 しかし曹操軍の策略で、多数の鹿が陣中に駆け込んできたのを夜襲と勘違いし、許チョに討たれた。
さらに曹操は楊松に賄賂を贈り、共に内応の申し入れを行った。
財宝と爵位に目が眩んだ楊松は、進んで曹操軍を引き入れた。

張魯が財宝を封印したことを知った曹操はこれに感心し、 曹操は使者を送って説得し、張魯の降伏を許して丁重に迎え入れた。
そして張魯を鎮南将軍に任じて、張富・張盛を初めとする張魯の五人の息子もそれぞれ侯に取り立てた。
また、張魯の娘は曹操の第9子である曹宇に嫁いだ。
しかし楊松だけは「主君を売った罪」を問われ、処刑された。

この張魯降伏の際、張魯軍の元にいたホウ徳も曹操配下となった。
ホウ徳は馬騰軍随一の武勇を誇り、馬超の仲間であったが、 馬超、馬岱らとは行動を共にしなかったため、 蜀には降らず、ここで魏に降ることになった。

・合肥の戦い
益州の北に位置する漢中を制した曹操は、蜀をにらみ南征の機を窺っていた。
益州を得たばかりの劉備は、曹操軍の南下を恐れ、諸葛亮とはかって、孫権に使者として伊籍を送る。

それは、荊州の一部返還を申し出るとともに、合肥を攻めるよう持ちかけるものだった。
孫権は、劉備の策と承知の上で、曹操が漢中にいる間なら、と合肥攻めに乗り出す。

215年、孫権は10万の呉軍を率いて長江を渡った。
先鋒を呂蒙と甘寧に命じて、自らは周泰とともに中軍を務めた。
呉軍は、先鋒の二将が活躍し、手始めに皖城を落とす。

一方、合肥を護るのは、張遼・季典・楽進の三将軍。
皖城の救援要請に張遼が駆けつけるが間に合わず、引き返して城に籠っていた。
そこへ曹操からの手箱が届けられる。

張遼・季典は出て戦い、楽進は城を守れ」 それが手箱の中にあった曹操の指示だった。
合肥の魏軍は総勢7千余。軍議はもめるが、張遼が出陣を主張して方針が決まった。

張遼来々
まず楽進が出撃し、呉軍と遭遇するとわざと逃げ出した。
呉軍は勢いづいてこれを追い、小師橋を渡り中軍の孫権までが馬を進める。
そこへ季典と張遼が挟み撃ちにする形で襲い掛かった。

たまらず孫権は引き返すが、敵の猛攻が孫権を狙う。
陳武は孫権を護るために奮戦するが、枝に服が引っ掛かって身動きが 取れなくなったところをホウ徳に斬られ、戦死してしまった。
陳武の死を孫権は大いに悲しんだという。
敵中に孤立した孫権を救うため、凌統は腹心の部下300騎を連れて敵陣へ斬り込んだ。
親しんだ部下が次々と失われていく中、壮絶な死闘の末に孫権の奪還に成功した。

なんとか後退した孫権だが、すでに敵によって小師橋が落とされていた。
慌てる孫権に、味方武将が馬を飛ばすように言う。
そこでいったん馬を下がらせ、一気に飛んで対岸へ着地した。

孫権は難を逃れたが、呉軍は寡勢の魏軍相手に大敗した。
全身に傷を負って瀕死の状態であった凌統に、孫権は自らの衣服を着せて、手厚く看護させた。
蘇生した凌統は、自分に従ってきた部下が全員、戦死したことに落涙したが、 孫権は「死んだ者はもう戻ってこない。だが私には、まだ公績がいる。それで十分だ」と慰めた。

この戦いで、張遼の威名は江東に轟き、「張遼がくるぞ」と言えば 幼い子供までもが恐れたことから「泣く子も黙る張遼」と恐れられた。
孫権は濡須口まで戻って、軍勢を立て直した。

・濡須口の戦い
こののち、張遼から援軍の要請を受けた曹操が漢中より駆けつける。曹操軍は濡須へ攻め寄せてきた。
この時、甘寧は前部督となり、百人ほどの選抜隊を組むと曹操の陣営に夜半奇襲をかけた。
これにより敵兵は混乱し、動揺して引き下がった。孫権は喜び、「孟徳(曹操)には張遼がいて、 私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と甘寧の武勇と豪胆さを賞賛し、軍勢二千人を加増した。

その後進撃してきた曹操軍を孫権軍は迎え撃ち、激しい戦いを繰り広げた。
このとき嵐のために船が転覆してしまい、水軍の指揮を執っていた董襲は溺死してしまった。 (その後、孫権は董襲の遺体を捜させ丁重に葬った。)

敵の猛攻、嵐による船の転覆に、呉軍の一部の部隊が孤立してしまった。
味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知って恐怖を感じ震え上がったが、 徐盛は果敢にも自ら敵中に突っ込んだ。
これを見て絶望にとらわれていた者たちも敵に突撃をかけて、魏軍が敗走したと言われている。

凌統も曹操軍の勢いに圧され窮地に陥るが、甘寧により命を救われた。
凌統は父を殺した甘寧を恨んでいたが、この時和平し、以後は親交を深めたという。

孫権はまたも敵に取り囲まれるが、周泰の賢明の働きで辛うじで窮地を脱した。
周泰はかつて孫権が宣城にいたとき、山越の反乱軍に襲われて命が危うかったことがあったが、 そのときに全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった武将である。
周泰はここでも身を挺して、二度も孫権を護った。
また瀕死の周泰の傷を治療したのは、三国の伝説的な名医である華佗だった。

濡須口で曹操軍を退けた後、濡須の督になった周泰だが、 徐盛や朱然が周泰の指揮下に入って戦うことを嫌がった。
孫権は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、 孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、 最後に「私が今在るのは、君のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。
これに諸将は圧倒され、周泰の指揮下に入ることを納得したと言われている。

孫権はこれ以上の戦いを避け、曹操と和睦した。
許昌に戻った曹操は魏王の座に就き、さらに威勢を振るう。
一方、曹操の矛先を交わした劉備は、虎視眈々と漢中を窺っていた。

・魏蜀激突
曹操軍は漢中に兵を進めた。巴西を守っていたのは張飛と雷銅であった。
張コウが三万の兵を連れて攻めて来たが、前後から攻め、伏兵で攻撃し、撃退した。
逃げる張コウを追撃したが伏兵に退路を断たれてしまい、 雷銅は張コウに突き殺されてしまった。

張コウは巴西の住民を奪い、漢中へ移住させようと企てた。
張飛は、張コウの軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて 山道の隘路を利用して迎え撃つ計略を立てた。
結果、張コウはその計略にはまり、狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、 自身はたった数十人の部下とともに脱出する羽目になる。
こうして張飛は張コウの軍を撃退することに成功した。

なおも攻める曹操軍に対し、黄忠・厳顔の2老将の活躍により張コウ・夏侯尚らを破り、 前線に出た黄忠は韓玄の弟とされる韓浩を討ち取った。
怒った夏侯徳は自ら出撃したが、後方に回った厳顔に斬られてしまった。

・定軍山の戦い
天蕩山を奪取した劉備軍は、さらに軍を率いて漢中を攻める。
定軍山を目指す劉備軍の先鋒は黄忠と法正。ここを守るは夏侯淵
まずは蜀軍の陳式が夏侯淵の甥の夏侯尚と戦うが、捕われてしまう。
その後黄忠は夏侯尚と戦い、夏侯尚を捕らえた。

双方に捕虜があることで、陳式と夏侯尚の人質交換が行われることになった。
両軍の矢の雨が降り注ぐ中、解き放たれた陳式と夏侯尚は自軍へと戻っていく。
しかし黄忠が放った矢が夏侯尚の背中に突き刺さり、夏侯尚は重傷を負った。

魏軍は守りを固め動こうとしなかった。
このため黄忠は法正の策を受け、さらに高所にある山を攻め落とし陣を敷いた。
魏軍より高所であるため敵の陣、兵の動きすら蜀軍からは丸見えであった。
これを不快に思った夏侯淵は出陣したが、伏兵として潜んでいた黄忠夏侯淵の背後を取って攻めかかり、大勝利を収めた。
勇猛果敢で名が知れ渡っていた猛将、夏侯淵はついに黄忠によって討ち取られてしまった。
夏侯淵の戦死を聞いた曹操は嘆き悲しみ、激怒したという。

夏侯淵の幕僚であった郭淮は「張コウ将軍は国家の名将であり、敵将の劉備も恐れている。
この事態は張コウ将軍をおいて打開できない」と全軍に命令を発して張コウを主将に推薦し、 張コウが主将となった。
張コウは全軍を励まして動揺から落ち着かせ、諸将もまた張コウの軍令に従った。

曹操は自ら軍を率いて攻め寄せてきた、趙雲は自軍砦前で敵を防ぎ、 その間に蜀軍の別働隊が背後を攻めたため、またも魏軍は敗走した。

魏将の王平は漢中の地理に詳しいことから、曹操に郷導使に任命されたが、 同僚の徐晃と仲違いし殺されかけたので、陣に火を放って劉備に降り、以後蜀の武将として仕えた。

この漢中の戦いで、蜀の呉蘭は曹操の息子、曹彰と戦ったが殺されてしまった。

・鶏肋
両軍が膠着する中、曹操は攻めるべきか退くべきかを考えていた。
楊修は曹操が何気なく言った「鶏肋」という言葉に対し、 「鶏肋(鶏ガラ)は、食べるほどには身がないが、ダシが出るので捨てるには惜しい」、 すなわち「惜しいが今が撤退の潮時」と解釈し、 曹操に確認もとらず撤退の準備を命じた。

しかしそのつもりがなかった曹操は、勝手な行動を取ったとして楊修を処刑した。
(楊修は曹植の学問の先生であり、「答教」という教科書を用いて魏の政治的問題を教え、 魏の後継ぎ問題にも関わるほどに曹植に肩入れをしたため、 曹操は何か楊修が問題を起こした時に殺害しようと決意していた。)

その後曹操劉備と対峙したものの、弓矢で前歯を折られ命からがら逃げ帰り、魏軍も追い散らされた。
兵士らは「楊修の言うとおりに軍を退いていれば損害を最小限に食い止められたのに」と思ったという。

●荊州争奪戦

劉備、漢中王に
こうして漢中を手にした劉備は、219年、漢中王と称した。
さらに諸葛亮の進言により、五虎大将軍という官爵を作り、 劉備が古参・新参を問わず信頼と功績のある武将5人に授けた。 (関羽を筆頭に張飛馬超黄忠趙雲の順)

しかし命じられた際、関羽が「黄忠のような身分の低い老将や、 仕えて日が浅い馬超などと自分が同格なのは納得いかない」と愚痴をこぼしたという。
趙雲は、各地を転戦するもそれまで大きな功績が少なかったため、 他の4人より昇進が遅く、待遇が同格になったのは晩年期であるとされている。

その頃、荊州領土問題を解決しようと、呉の孫権から関羽の娘に、 彼の息子との婚姻の申し入れがあった。
しかし関羽は「虎の娘を犬の子にはやらん」といい、これを断った。

これに孫権が怒ったことを受け、曹操の部下の司馬懿と蒋済は 関羽孫権の仲が悪くなったことを見計らって呉と同盟を結ぶ事を提案し、 曹操は呉と同盟を結んだ。

関羽軍、樊城攻め
魏と呉の不穏な動きを感じ、荊州を守っていた関羽軍は樊城を攻めた。
樊城を守るは魏の曹仁。満寵が篭城を主張するのに対し、夏侯存は迎撃を主張する。
結果、曹仁は夏侯存の意見を取りいれ樊城に迫った関羽の軍勢に挑む。
一進一退の攻防が続く中、夏侯存はその息子の関平の部隊と激突するが、逆に関平に討たれてしまった。

樊城を包囲した関羽軍の勢いに、魏軍は守りを固める。魏の援軍として于禁、ホウ徳が駆けつける。
ホウ徳は常々「私は国のご恩を受け、命を懸けることで義をおこなうものである。
この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と言っていた。

ホウ徳は兄・ホウ柔やかつての仲間、馬超が蜀にいることから、 魏将から蜀に降るのではないかという疑いの目で見られていた。
ホウ徳は自らが裏切るかもしれないという疑念を晴らすため、戦に赴く前に自らの棺を用意し、 自らの命に代えてでも関羽を討つという意思を示し、 曹操もそれを聞いて絶賛したため、于禁に同行させた。
大将が于禁、副将がホウ徳となったが、両者は折り合いが悪かった。

初めホウ徳は戦局を優位に進めていたが、于禁は功を焦ったのか撤退命令を出した。
関羽は腕に毒矢を受けて負傷するが、名医・華佗は荊州の関羽の元へ自ら出向き、 骨を削って治療を施した。

魏軍の虚を突き、関羽は雨水を貯めておいた堰を切って落とし、水攻めを仕掛ける。
あらかじめ筏を用意していた関羽軍に対し、筏を持っていない于禁軍はなすすべもなく大敗した。

配下の董衡・董超が関羽に降ろうしたためホウ徳はこれを殺し、弓矢による激しい抵抗を続けた。
雨はさらに酷くなり、関羽の攻撃も熾烈を極めた為、兵はこぞって降伏してしまい、 水の勢いでホウ徳の船が転覆しそうになった。
周倉は、濁流からの脱出を図るホウ徳の小船に蒙衝をぶつけて転覆させると、 得意の水練(水泳)でホウ徳と死闘を演じるが、ついに于禁、ホウ徳ともに生け捕られた。

ホウ徳は「我は国家の鬼となり、賊将にはならぬ」と延べ、 曹操への忠義を貫いて降伏を拒み、関羽によって首を討たれた。
その忠義を高く評価され、のちに曹丕に壮侯と諡され、子も爵位を賜ることとなった。

しかし于禁は惨めな命乞いをしたため、助命された。
後に呉に渡り、221年に魏に送り返されるものの、魏の人々から嘲笑を受け、 曹丕にまで辱められたため、面目なさと腹立ちのため病に倒れ、死去したという。

関羽の最期
その頃、呉では病死した魯粛に変わり呂蒙が後を継いでいたが、 その呂蒙は自らを病と偽り、無名ながら俊才の陸遜を後任に抜擢した。
陸遜はわざと関羽にへりくだった態度の手紙を送った。

呂蒙の狙い通り、関羽陸遜が守備の後任であることに油断し、荊州の守りが薄くなった。
すかさず呂蒙は兵を率いて荊州に侵攻。軍船を商船に偽装し、守備側に気づかれることもなく 荊州の奥深くに進入させ、瞬く間に荊州を落とした。
呂蒙はさらに、関羽配下でありながら、関羽とは不仲であった士仁・麋芳の対策を練った。
士仁は呉の虞翻と親友であり、虞翻は降伏勧告の使者として士仁に会った。
呉軍は既に多くが荊州におり、包囲は時間の問題となっていた。士仁は、涙ながらに降伏した。
(士仁は傅士仁と呼ばれることがあるが本来は誤りであるという。 光栄作品は「傅士仁」と表記していることが多い。)

麋芳は、関羽との不和に目を付けた孫権から内応を持ちかけられ、糜芳は呉と通じるようになった。
呂蒙が南郡攻略を開始すると、糜芳ははじめ城に立て籠った。
しかし、士仁が呂蒙と共にいるのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて呂蒙に降伏した。

呉は背後から。これに示し合わせ魏もまた前方から攻め寄せる。
徐晃は樊城の救援に趙儼と共に向かい、見事に関羽軍を撃破する。
曹操徐晃を褒め称え、「わしは三十年以上も兵を用い、古(いにしえ)の戦上手な 将を数多く知っているが、このように敵包囲網に突撃した者はいなかった。
しかも樊城における状況は、(戦国時代の)燕が斉のキョ・即墨を包囲した時以上に困難なものであった。
将軍の功績は(過去の名将である)孫武・司馬穰苴にも勝るものであろう」と語った。

また、この戦勝を祝い宴を催した時、曹操徐晃に酒を勧めて、彼を労った。
この時、他の軍勢も集結していて、多くの軍の兵卒たちは持ち場を離れて騒いだりしていたが、 徐晃の軍だけは将兵が整然と陣に着いていて持ち場を離れる事が皆無だった。
これを見た曹操はますます徐晃を篤く信頼し 「徐晃には周亜夫(前漢の大将軍)の風格がある」と称えたと言う。

樊城を包囲している関羽軍は曹操軍と樊城軍に攻められ敗走、たまらず関羽は麦城に逃れる。
廖化は上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、劉封は確執関係にあった関羽を、 孟達の進言で援軍要請を断り、見殺しにしてしまう。
廖化は援軍の願いが聞き入れられないとみるや成都に走った。

関羽は僅かの兵、食料とともに麦城に籠り援軍を待つが、 なかなか来ないため、城からの脱出を図った。
しかしこれを読んでいた呂蒙により、潘璋の部下・馬忠の罠によって、 ついには関平とともに捕らえられてしまう。

孫権関羽を配下に迎えようとしたが、側近にたしなめられ、関羽も断ったために断念。
219年。ついに関羽は関平とともに斬首され、ここに生涯を閉じた。享年58。
麦城に籠っていた周倉と王甫だったが、関羽、関平の首を見せられ殺されたことが分かると、 周倉は城壁から飛び降り、王甫は櫓から身を投げて、2人は関羽の後を追って自殺した。
(王甫と周倉はともに自刎して果てたとする版も存在する)

●曹操の死去

曹操の最期
関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、 曹操は国葬という諸侯の礼をもって彼を葬った。
曹操によるこの処置は異例の事であった。
しかし曹操はこの式の後、然程間を置かずに病に伏せた。

その後、華佗は頭痛に苦しむ曹操に召し出され、 「麻肺湯をお飲み頂き、然る後に鋭利な刃を用いて脳袋を開けば、 病根を取り除く事ができます」と治療法を告げた。
「わたしを殺すつもりか」と怒った曹操に対し、 華佗は関羽が肘の骨を削られても動じなかった事を引合いに出した。
曹操は「関羽の仇を討とうとするのか」とさらに怒り、 華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまった。
(正史では違うエピソードだが、華佗を殺したことを曹操は後悔している)

220年3月15日。華佗を殺した後、曹操は間もなく病死してしまう。
天下の三分の二を平定した乱世の奸雄もついにここに生涯を閉じた。享年65。
曹操は「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。

関羽の死後
関羽の愛馬、赤兎馬は呉の馬忠に与えられたが、馬草を食わなくなって死んだという。
関羽の愛用した青龍偃月刀は、関羽を捕らえた潘璋に孫権から褒美として与えられた。
しかし後に潘璋は関羽の霊に驚いている隙を、関羽の息子・関興に斬られ、 青龍偃月刀は関興に受け継がれることになる。

関羽を破り大功を立てた呉都督・呂蒙は、 関羽の死から二ヵ月後に、かねてからの病がぶり返して死んだ。享年42。
関羽の霊が呂蒙を呪い殺したとされるが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、 また非現実的であることなどから近年では物語から削除される事もある。)

関羽を処刑した後、孫権は祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、 呂蒙に親しく杯を渡した。
呂蒙は恭しく杯を受け取ったが、 突然その杯を地面に叩きつけるなり孫権の胸倉を掴んで押し倒し 「我こそは関羽なるぞ」と大喝した。
祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると呂蒙はばったりと倒れ、 血を吐いて死んだという。関羽の魂が乗り移ったと言われている。

関羽の恩徳を慕った民衆は、呂蒙・曹操や、その他の樊城攻撃に携わった人間達が、 次々と死んでいく様を「関公(関羽の敬称)の祟りだ」と噂し、 後世にも伝わる関羽伝承をまことしやかに語ったという。

関羽は死後ですらこれほどのエピソードがあるため、 いかに三国志演義において関羽が神格化され、特別扱いを受けているかが窺い知れよう。

関羽の死に悲しんだ蜀は、まず関羽を見殺しにし、 援軍を送らなかった劉封・孟達を処分しようとした。
危機を覚えた孟達は、処罰を受けまいと魏に投降した。

劉封は孟達と対立し、孟達と徐晃・夏侯尚率いる魏軍に大敗を喫し、止むなく成都に逃れた。
(このとき劉封配下の申儀、申耽兄弟が魏に降った)
これを見て廖化が「臆病者」と罵った為、劉備は劉封を処刑することに思い立った。
しかし、劉封が孟達から魏への投降を勧められていた際、 怒って投降を勧めた使者を斬って信書を破り捨てていたことを知った諸葛亮らが、 処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されていた。
劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ病に倒れたとされる。
(正史では諸葛亮が劉封の勇猛さを恐れ、いずれは劉封が災禍を起こすであろうと判断し、 これを機会に排除すべきと進言した。 自決の際、劉封は「孟達の言葉に従っておれば…」と洩らしたという。)

曹操の後継者
曹操の死後、とりあえずは曹丕が跡を継いだが、 後継者を巡り、兄弟、そしてその側近同士による、お家騒動が起きる。

曹操の四男、曹彰は勇猛であるが、君主としての才には欠けていた。
曹操臨終の際には長安に駐屯していたが、曹操は早馬で彼を呼び寄せた。
曹操の死に間に合わなかったが、洛陽に到着した曹彰は 曹操死後を取り仕切っていた賈逵に曹操の持っていた璽綬のありかを尋ね、 賈逵に「貴方の尋ねるべきことではない」と反論されている。
兄の曹丕にはその優れた武勇を警戒されて冷遇されたという。

曹操の五男、曹植は詩の才能があり、曹操の溺愛を受けていた。
曹植は人となり奔放不羈、礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する 天才肌の貴公子であったが、文化人としての気風が強すぎるきらいがあった。
曹操が没すると曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになる。
側近が次々と誅殺され、曹植も221年には安郷侯に左遷転封、 同年のうちにケン城侯に再転封、223年にはさらに雍丘王(食邑二千五百戸)、 以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑三千五百戸)と、死ぬまで各地を転々とさせられた。
曹植は三国を代表する詩人であると言われているが、 曹植自身は詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節があったようだ。

曹操の六男、曹熊は病弱であり、君主としての激務に耐えられる人物ではなかった。
曹操の死後、兄の曹丕から父の葬儀に参列しなかったことを咎める使者が送られた時、 兄に咎められることを恐れて自殺したといわれている。

かくして騒動は治まり、220年、曹操の後を継いだ曹丕は、献帝から禅譲を受け、 帝位に就いて魏を建国した。ここに漢は滅亡した。
曹丕が献帝に禅譲を強要した際、皇后である曹節(曹操の娘)に「この不忠者!」と 罵倒されていることから、曹操に皇后を押しつけられたとはいえ、 曹節は礼を重んじていたといえよう。

劉協は皇帝という身分は失っても、「朕」という皇帝だけが使える一人称を使う事を 許されるなど様々な面で厚遇された。
また、皇子で王に封じられていた者は、みな降格して列侯となった。

また、蜀には劉協が殺されたと伝えられたため、その翌年劉備はこれを理由として皇帝を称し、 漢の後継者を自称した上で、独自に孝愍皇帝の諡を送った。

その後の劉協は一人静かに暮らし、234年、五丈原で諸葛亮が死んだ年に54歳(数え年)で死去した。
魏は孝献皇帝(献帝)と諡した。

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