■ 夷陵の戦い〜南蛮夷の平定

●夷陵の戦い

張飛の最期
劉備関羽の復讐のため、呉を攻め滅ぼそうと考えた。
諸葛亮趙雲の諌めも聞かず、劉備は東征を命じた。
(正史では諸葛亮が反対したという記述はないが、 この夷陵の戦いにおいて諸葛亮は戦略の立案執行には関わっていない。)

張飛は張コウを相手に智謀をめぐらして勝ち、 厳顔に感激して仲間に加えるなど、武将としての成長が見られていたが、 義兄弟である関羽を失った事で荒れ狂い、元の乱暴者に戻ってしまっていた。

張飛は勇んで出陣の準備を進めたが、部下の張達・范彊が兵力不足を進言した所、 折りしも悪く張飛は酒に酔っていたので、張達・范彊は棒で叩きつけられた。
それを根に持った張達、范彊は張飛の寝首を欠き、張飛は暗殺されてしまった。
張達、范彊は張飛の首を持ち、呉へと下った。

劉備張飛の都督、呉班から上奏文が届けられたと聞くと、 その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

劉備を残し、関羽張飛は先に没してしまった。
三国志を著した「正史」の著者とされる陳寿は、 正史・関羽伝の最後に張飛の人物評も併せて載せ、このように括っている。

関羽張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、 一世を風靡する剛勇の持ち主であった。
関羽は顔良を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、 張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、 両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。
しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、 これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。
世の理とは、こういうものなのだろう。
(「關羽、張飛皆稱萬人之敵、為世虎臣。 羽報效曹公、飛義釋嚴顔。並有國士之風。 然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短敢敗。理數之常也」『蜀志・関羽伝』)

・蜀軍の侵攻
関羽張飛の死後、関羽の二男、関興が関羽の後を継ぎ、 張飛の長男、張苞が張飛の後を継ぎ、呉への侵攻に加わった。

その先鋒を張飛の息子である張苞と武芸比べで争ったが、勝負は互角であった。
劉備のとりなしで一年年長の張苞を兄、関興を弟として義兄弟の契りを結ぶことになった。
(正史では張苞は若くして死んでおり、張飛の死後、弟の張紹が跡を継いでいるため、 張飛よりも先に亡くなったと思われる。)
張苞は張飛の愛用武器である蛇矛を持ち、 関興も後に関羽の愛用武器である青龍偃月刀を持ち、共に父の形見を手に取ることになる。

蜀軍の勢い盛んであり、仕方なく孫権は魏に形式的に称臣することで劉備に対抗しようとした。
221年7月、劉備は親征軍を発し、蜀と呉の戦いの幕が開けた。
侵攻に反対した趙雲を江州に留め置き、魏軍にたいする牽制とし、呉班、馮習らを先鋒として、 李異、劉阿、陸遜らが防御していた巫城とシ帰城を続けて急襲し短期間の内にシ帰県までを制圧した。
さらに劉備自身も本隊を率いて進軍し、シ帰に駐屯し、 呉班と陳式らに水軍を指揮させ夷陵にまで先行させた。

この戦いの最中、劉備が「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と 老兵を軽んじる発言をしたため、黄忠はそれを聞いて、 部下十数名で潘璋の陣に無謀な突撃をするが、 馬忠の矢にあたり、それが元で死亡してしまった。享年75。
黄忠は正史では220年に亡くなっているため、この戦いの前に死亡している)

関興はこの弔い合戦で全身に白い鎧をまとって出陣し、 父の仇の一人である潘璋は、関羽の亡霊に怯んだところを関興に斬り殺された。
(正史においてはこのエピソードはなく、潘璋はこの戦いに生き残っている。)
潘璋は関羽を捕らえた褒美として、かつて関羽が愛用した武器、青龍偃月刀を持っていたが、 関興はこれを取り上げ、父の形見を取り返した。

関羽を裏切り、蜀から呉へ渡った士仁・麋芳は蜀軍の勢いを恐れ、呉の馬忠を斬り、 その首を持って再び蜀に戻ろうとした。
しかし怒りの収まらない劉備は、自らの手でこの2人を処刑した。
(吉川英治の小説、横山光輝の漫画では関興が処刑している。)

蜀の勢いを恐れた呉は、張飛を殺した范彊、張達を送り返し、劉備の怒りを静めようとした。
范彊、張達は張苞によって処刑されたが、劉備は呉への進撃の手を休めなかった。
カン沢は呉の防衛に際し陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭らが反対した。
しかし孫権は、陸遜を大都督に任じて劉備に備えた。

・夷陵の戦い
黄権はこの戦いに際し「長江の流れに乗って攻める時は良いですが、 退却するときが難しくなります。私が先陣を務めますので陛下は後からお越しください。」と述べたが 劉備は聞かず、黄権を鎮北将軍と為して江北に駐屯させて北の魏に対する守りとした。

守りを固める陸遜に対し、意気盛んな蜀軍は攻め渋る。
蜀軍は長江に沿って呉領内の夷陵へと陣営を延ばしていく。
しかし、それでも陸遜はなかなか討って出ようとしなかった。

222年に入り、気候が温暖となると劉備は更に侵攻を進める。
長江北岸の夷陵の戦線を黄権にまかせると、水軍を引き上げさせ、長江を渡渉し、 先鋒は夷道にまで進み孫桓を包囲した。
孫桓は陸遜に救援要請を出したが、陸遜は蜀軍を破る計略があるとして救援を出さなかった。
次いで劉備自身もコウ亭にまで進軍した。
さらに馬良を武陵に派遣し、異民族を手懐けさせ、これに沙摩柯らが呼応した。

武蛮族(ミャオ族)の王である沙摩柯は「鉄疾黎骨朶」を愛用武器とし、蜀に味方しこの戦いに参戦した。
呉の甘寧は病床の身を押して出陣したが、沙摩柯の矢を受けて戦死してしまった。
沙摩柯は他にも各地で呉軍を打ち破るなど、大いに活躍したという。

この持久戦に、遠征の蜀軍は次第に疲労が増していった。
陣が長く連なっているため、大軍といえども壁の薄い細い線となっていた。
6月、機は熟したと見た陸遜はまず敵陣の一つを攻撃したが、成果を得られなかった。
しかしこの時蜀軍の陣営が火に弱いことを見抜き、陸遜は全軍に指示を出し総攻撃を開始。
朱然に命じ、水上を急行して火攻めを仕掛け、40以上の蜀軍後方の陣営を陥落させた。
指揮が低いところに急襲を受け、蜀軍は総崩れとなった。
劉備は後方の陣営が落とされると馬鞍山まで撤退し陣を敷いたが、 呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は大敗、潰走した。

この戦いで、甘寧を討ち取った沙摩柯は、呉の周泰に斬り殺された。
(正史では、陸遜の火攻めのために軍が大敗して沙摩柯が戦死したとあるが、周泰に討ち取られたとは書いていない)
また蜀武将・張南も戦死した。(王甫、馬良も、正史ではこの戦いで戦死した。)
関興は劉備をかばい重傷を負った。

劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込んだ。
蜀軍の被害は著しく、生き残ったのはわずかだったという。 これにより蜀は荊州の拠点を全て失なった。
(麋芳、士仁、潘璋、朱然、馬忠ら関羽の仇がこの戦いで死亡したのは演技での創作であり、 正史にはそういった記述はない)

諸葛亮はこの戦いの敗北を知り「法正がおれば、主上(劉備)の東征を止められただろう。
もし東征を行ったとしても、今回以上の危険と損害は避けられていただろう」と嘆いたという。
(この戦いの前に、既に法正は病死している)

退路を断たれ、益州に戻ることが出来なくなった黄権は、進退窮まり魏国に亡命した。
夷陵の戦いの直後、蜀において、魏に降った黄権の家族を捕えるべし、という意見があがったが、 劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ。」と述べて 黄権の家族を今まで通りに遇した。
また後に他の蜀の降伏者が黄権に「家族が誅殺された」と言ったが、黄権はこれを信じなかった。

魏に降った黄権に対して魏皇帝曹丕が「君は逆(蜀)を捨てて順(魏)にならった。
陳平・韓信に倣おうとしたのか?」と聞くと、黄権は「私は蜀で過分な厚遇を受けていました。 私が魏に降ったのは単に死を免れようとしただけで、古人に倣おうなどとは思っていません。」と答えた。
曹丕はこの答えが気に入り、黄権を鎮南将軍・育陽侯・侍中とした。

また、かつて劉備の妻に迎えられていた呉の孫尚香は、夷陵の戦いで劉備の戦死したという誤報を聞き、 絶望して長江へ身を投げたとされる。

勢いに乗った陸遜は、呉軍を率い劉備を追撃する。
諸葛亮があらかじめ作っておいた石兵八陣の罠に、陸遜は足を踏み入れた。
石兵八陣は迷路になっていて道に迷いやすく、さらに時間が立てば水が押し寄せ、 知らぬ者が入れば命を落とす構造になっていた。
陸遜も危うく命を落としそうになるものの、黄承彦(諸葛亮の妻、月英の父親)に 導かれ、事なきを得た。

陸遜はこの石兵八陣の備えに驚き、諸葛亮恐るべしと警戒した。
またこの戦いの隙に呉の本国を狙う魏の動きに備え、追撃を諦め、引き返した。
この戦いの功績で、以前まで無名であった陸遜は呉で信頼され、重宝されることとなった。

・魏呉の不和
果たして魏は、蜀に攻め入り手薄となった呉の建業を目指していた。
曹丕は自ら出陣し、曹仁・曹休・曹真と合わせて三路より呉を攻めた。

このとき呉の呂範は呉の名将・徐盛、全jらを率い、 魏呉の重要拠点・須濡に進撃した曹休・曹真率いる魏軍の迎撃にあたった。
呂範は魏軍の攻撃をことごとく退けたが、また曹真らも呉の反撃を寄せつけず、結局引き分けの形となった。
この後、暫く戦線は膠着するが、魏と呉が対等な立場において和議を結んだ直後、 呂範の船団は暴風雨に襲われ、この隙を逃さず曹休は猛追撃をかけて呂範軍は手痛い打撃を受けるが、 魏呉の講和中に魏側から条約を破ったという正当な理由をもって呂範は徐盛、 全jを大将として逆襲させ、今度は逆に呉が大勝した。

また呉の朱桓も曹仁と戦い大勝したため、魏は諦めて退却した。
これにより魏と呉も不和となった。

劉備の最期
白帝城に逃げ込んだ劉備は病に伏した。
劉備はそこで丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。
諸葛亮には「君の才能は魏の曹丕に十倍する。 わが子・劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。 必ずや国に安定をもたらし、統一を果たしてくれると信じている。 だがしかし。もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、 君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い遺し、
子供達に対しては「悪事はどんな小さなことでも行なってはいけない。 善事はどんな小さなことでもこれを行なえ。 お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。 『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・ 『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』等々を読んでしっかり勉強せよ。 これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。 些かも怠ったらばそなたらは不孝の子であるぞ」と言い遺す。
223年6月10日、志半ばで劉備は病没した。享年63。

●南蛮夷の平定

・五路からの侵攻
劉備が病死した翌月、嫡子の劉禅(幼名:阿斗)が劉備の跡を継いだ。
魏はこれを好機と見、曹丕は司馬懿の進言で五つの道を使い蜀を攻めようとした。
諸葛亮はこれを防ぐために策を練った。

北から攻める羌族に対しては、羌族の間でその名が轟いている馬超を守備に当たらせた。
羌族は馬超の武力を畏怖し、恐れて蜀には攻め込まなかった。
(正史では馬超は222年に既に死亡しており、このような話はない)

孟達の軍に対しては、孟達の友人、李厳を守備に向かわせた。
孟達は良心の呵責からか、友人と戦うことを拒み、戦わずに魏に引き返した。

南蛮軍には魏延、魏の本体には趙雲に守らせこれを防いだ。
魏は蜀を攻めるよう呉を動かそうとしたが、諸葛亮はケ芝を派遣し、 ケ芝は孫権を相手に巧みな弁舌を披露。
呉も蜀へ張温を使者に立て、修好を回復させた。

・呉の大撃退
これに怒った魏は呉に軍を向けた。呉は徐盛にこれを防がせた。
陸遜は荊州の守備があって駆けつけられないため、徐盛が自ら志願して総大将となった。
孫韶は徐盛の作戦に異を唱えて徐盛を怒らせ、斬られそうになり、孫権にも怒りを買った。
徐盛は、反対する諸将も多い中、長江沿岸数百里にわたって偽の城壁を建造する策を強行し、 曹丕はこれを見て呉軍が充分に迎撃体制を整えていると誤解し驚き、 孫韶はここに奇襲したため魏軍に大打撃を与えることに成功し、魏軍は撤退した。
孫韶は徐盛と共に孫権に賞された。

魏の名将、張遼徐晃とともに参戦していたが、 この時の戦いで丁奉の矢を受け、その傷が元で死去してしまった。
(正史では張遼は222年、江都で孫権と対峙中に病死。享年54)

諸葛亮、南征へ
この頃蜀は、南中一帯で反乱が起こった。
丞相として後主人・劉禅を補佐していた諸葛亮は、南征を願い出た。
この機に、後顧の憂いを絶とうとしたのである。
この時、この隙に呉が蜀へ攻めたらなんとするか、との問いに、 諸葛亮は「李厳なら陸遜に太刀打ちできるだろう」と言った。

その頃、南方で最も力を振るっていたのが、南蛮王・孟獲であった。
225年、南蛮へと赴いた諸葛亮は、馬謖の「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」という 助言を聞き入れ、南蛮の民を心服させる方針で臨む。

この戦いを前に、関羽の三男、関索が復帰し、蜀軍に加わった。
荊州が陥落した際に呉軍から逃れるも負傷し、鮑家荘に隠れていたという。
(関索は正史には登場せず、当然関羽にも関索という名の息子がいたなどの記述はない。謎の人物である。)

まず反乱軍は、高定配下の猛将、顎煥が先鋒に立った。
だが魏延・王平・張翼はこれを包囲し、顎煥を捕らえた。
ここで諸葛亮は離間の計を用い、顎煥を開放。
以後の顎煥は蜀漢の力量を恐れ、また、諸葛亮への恩義から、 高定にも帰順を薦めるようになる。

高定と朱褒は不仲となり、ついに顎煥が雍ガイを討ち取り諸葛亮に降伏したが、 諸葛亮に疑われ「ならば、朱褒の首級を取って参れ!」と命じられ、高定は朱褒を攻め寄せて滅ぼした。
やがて諸葛亮から「忠義者である!」と絶賛され、高定は益州三郡を任せられた。
(正史では朱褒が益州を治め、高定が斬られている。
また雍ガイは殺されたとあるが、殺したのが顎煥であるという記述はない。)

益州の乱はこうして収まった。諸葛亮はこの反乱に 最後まで与せず、守り抜いた永昌郡太守の王伉の元を訪れ、労を労った。
王伉の参謀、呂凱は『平蛮指掌図』を献上し、諸葛亮の軍に同行した。
孔明はさらに軍を率い南蛮軍の鎮圧に向かった。
(正史では王伉は呂凱と共に、雍ガイが反乱を起こし永昌郡に攻めて来た時、 永昌郡全域を守り切り、その功績を諸葛亮に賞賛され、永昌郡太守になり亭侯に封じられた。
諸葛亮が劉禅に対して王伉の功績を上奏した文章の中で、 「彼は蛮地で忠節を十数年も貫いた。まさに忠臣である」と絶賛されている。)

・1度目の対決
孟獲は蜀軍を防ぐため、三洞の元帥を呼び寄せた。
第一洞元帥は金環三結、第二洞元帥は董荼那、第三洞元帥は阿会喃であった。

金環三結は運悪く趙雲に出くわし、一突きで馬から突き落とされ、首を斬られた。
董荼那は五万人ほどの兵を率いて蜀陣営を攻めるが、魏延らに夜襲を仕掛けられ、張嶷に捕らえられた。
阿会喃は趙雲・馬忠の夜襲に敗れ、張翼に捕らえられる。
董荼那、阿会喃は諸葛亮に諭された上で釈放された。

孟獲は自ら出陣し蜀軍と対峙した、孟獲配下の忙牙長は蜀の王平と戦ったものの、敗走する。
そして趙雲が南蛮軍を散々に打ちのめし、孟獲は逃れたところを待ち伏せていた魏延に捕らえられた。
だが、孟獲は屈服しなかったため、諸葛亮は解放して再戦の機会を与えた。

・2度目の対決
慎重になった孟獲は味方を集め、河岸に土塁を築いて対陣の構えを取った。
暑さで毒と化した河があったが、蜀の馬岱は、夜を持ち毒気が薄らいだところを筏で渡り、 食料補給路を断って孟獲を追い詰めた。孟獲は忙牙長を向かわせ、 夾山峪にて馬岱と一騎打ちするが、忙牙長は一太刀で斬られた。
(忙牙長は演義のみ登場するやられ役だが、なぜか馬ではなく水牛に騎乗しているという)

董荼那、阿会喃の2人自洞に帰るも、孟獲に呼び出されてやむなく出陣。
阿会喃は董荼那の側面援助として沙口を守ったが、 董荼那は馬岱に「命を助けてもらったのにまた出てくるとは!この恥知らずめ!」と罵られ、 恥じて軍を引き上げた。

それに怒った孟獲は董荼那に罰を与えた。
董荼那は不満を持ちはじめ、孟獲を捕らえて、諸葛亮に手渡した。
それでもまだ孟獲は屈しない。
諸葛亮は孟獲に陣営を案内し、蜀軍に備えがあることを見せ付け、再度孟獲を放った。

・3度目の対決
孟獲は諸葛亮に釈放されると、董荼那と阿会喃を裏切り者として殺害した。
孟獲は弟の孟優に偽りの降伏をさせるが、諸葛亮はこの裏をかき、 酒をもって孟優の動きを封じ、孟獲がやってきたところを取り囲み、 孟獲と孟優を兄弟ともども捕らえた。またも諸葛亮は孟獲を解放する。

・4度目の対決
怒った孟獲は十万の南蛮兵を集め、河に陣を張っていた蜀軍に押し寄せた。
すると諸葛亮は陣を捨てて逃げ出し、孟獲は徐々に蜀の包囲網に誘い込まれた。
取り囲まれた落とし穴にはまった孟獲は、再び捕らえられた。
まだ懲りない孟獲は再び解放された。

・5度目の対決
度重なる敗戦で、孟獲は蜀軍を迎え撃つ作戦に切り替えた。
孟獲は弟の孟優の紹介により禿竜洞(とくりょうどう)という 洞窟の主であった朶思大王へと救援を求める。
この戦いにおいて、四カ所に配置された毒の泉を用いて諸葛亮に対抗した。
だが、諸葛亮は孟獲の兄・孟節の助言を得て難を逃れた。

孟節は物欲の盛んな弟達に嫌気がさし、王城を離れ在野の士となっていた。
万安渓(ばんあんけい)という谷で「万安隠者」と名乗り、毒泉の毒に侵された人々を救ってきた。
孟節は毒泉にやられた傷病兵の治癒に協力した。

諸葛亮は前進しつつ各地の洞主を捕らえ、手懐けた。
その1人楊鋒は、援軍に来たふりをして孟獲、孟優、朶思大王らを捕縛し諸葛亮に献上した。
またもや捕らえられた孟獲は、諸葛亮に解放される。

・6度目の対決
孟獲は逃げ帰り、南蛮の八納洞を支配する木鹿大王に救援を求めた。
朶思大王は趙雲、魏延の軍と交戦した際、乱戦の中討ち取られた。

孟獲が何度も負けたため、これに怒った孟獲の妻・祝融夫人が出陣した。
祝融は男勝りの性格で飛刀(投げナイフ)の使い手とされ、 蜀将である張擬と馬忠を一騎打ちの末に捕らえた。

それに困った諸葛亮は魏延と趙雲に策を与え、わざと負けて祝融を怒らせて、 逃げる魏延を追いかける途中に罠に掛けて捕らえた。
その後、孟獲の申し出により張擬・馬忠と祝融の人質交換が行われ、自軍に戻された。

祝融の弟、帯来洞主により、木鹿大王は救援に応じた。
木鹿大王は自ら象に乗って戦い、猛獣や毒蛇を使って蜀軍を攻撃した。
趙雲や魏延を破り諸葛亮の軍に善戦したが、 諸葛亮は自らが開発した戦闘兵器(月英が発明したとする説も)、 火を吐く車を用い、猛獣を追い払った。
(この火を吐く車を、三国無双では「虎戦車」と呼んでいる)
混乱した南蛮軍の隙を突き、関索は木鹿大王を討ち取った。
勢いに乗った蜀軍は敵を蹴散らし、孟獲は祝融、孟優と共に捕らえられた。
諸葛亮はまた孟獲らを放った。

・7度目の対決
孟獲は帯来洞主の紹介で、南蛮にある烏戈国(烏滸族)の王。兀突骨に救援を求めた。
兀突骨は身の丈十二尺(後漢の尺で276cm、魏・晋の尺で289.2cm)の大男で、 体が鱗で覆われていたという。
また穀物の類は一切食べず、生きた獣や蛇を食べていたといわれる。
兀突骨配下の土安は、油を藤の蔓に染み込ませて鎧状に編んで乾かした藤甲を着た、 刀や矢も通用せず川などでは浮いて移動する最強の兵、藤甲軍を率いた。
兀突骨は孟獲に替わり、蜀軍を苦戦させた。

だが藤甲の製造法と火に弱いことを知った諸葛亮は魏延に策を与えた。
孟獲は度々捕らえられているために極めて慎重になっていたため、 魏延は何度も敗走を重ねて、南蛮軍を油断させた。
そして兀突骨を盤蛇谷に誘い込み、地雷を使って火計を用い、部下もろとも全員焼き殺した。
ついに孟獲は捕まること七度に及んだ。

・南征を終えて
さすがの孟獲もついに諸葛亮に心服し、蜀への心からの帰順を誓った(七縱七禽)。
かくして南方の平定は成り、蜀軍は帰国した。
この帰途で川の氾濫が起こり、軍は立ち往生した。
この時、川の氾濫を沈めるために川の神へと人柱を立てて、人の首を川に沈めるという風習があったが、 諸葛亮はこの悪習を改めさせようと、小麦粉で練った皮に肉を詰め、 それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだ。
これが饅頭(まんじゅう)の始まりである、という説がある。

やがて225年秋9月に、諸葛亮がテン池に到達した。その頃は南中四郡は孟獲の威光で平定された。
現地の住民の老若男女を問わずに、土豪の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏の支配下に置かれた。
そこで諸葛亮はその中に勇敢な若者を抜擢した。
その中から建寧郡の爨習、朱提郡の孟エンらが孟獲の推挙によって官吏として召し出されたという。
後に孟獲は功績を立てて御史中丞(官吏に対する監察と弾劾の役職)まで昇進した。
さらに、孟獲は李恢・爨習と共に建寧郡の名士として称えられている。

<< 前へ  目次  次へ >>
トップへ戻る